歴史往来 

 

          絹織物の街 桐生

 

 

                        絹織物の街  桐生         

 

 関東平野の北端部、群馬県南東部に位置する桐生市は、渡良瀬川、桐生川の合流部の平地に形成された縄文時代の大規模集落が、時代と共に発展していった場所で、奈良時代には専業的な職能集団が存在したことも確認されている。また、桐生は古くから絹織物の産地として知られていた。中世戦国時代には桐生氏、由良氏などの武家統治となったが、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、桐生の織物産業を高く評価し、徳川幕府の成立とともに桐生を天領とした。江戸時代を通じて幕府の直轄地(一部館林藩、松山藩などの飛び地)となった事で、領主が直接支配する事のない町として発展していった。

 明治時代以降、工場制手工業の導入により織物生産量は飛躍的に伸び、日本の基幹産業として外貨獲得に大きく貢献し「西の西陣、東の桐生」と謳われた。桐生市は製糸・撚糸・染織・縫製・刺繍など、繊維に関する様々な技術を持つ事業所が集まる総合産地であることから「織都(しょくと)」という雅称があるほどだ。(ちなみに横浜に向かう「絹の道」のある東京都八王子は「桑都(そうと)」です。)

 昭和期になって人々の衣装は和装から洋装になり、絹織物産業は下火となったが、長年育まれた繊維工業機械の技術は機械部品産業の発達を促し、自動車部品産業などの発展に結びついている。市内には明治から昭和初期にかけての歴史的建造物が数多く存在する。

 

 3時間以上電車に揺られ、正午にJR桐生駅に到着。以前、袈裟丸山~庚申山登山で来たことのある駅だ。しかし暑い!。10日程前(2025.8.5)に気温41.2℃を記録し、過去の最高気温を更新したばかりだという。今日は市内観光だけだが、熱中症にならないよう、しっかり水分摂取してから出発。

 まずはJR桐生駅南口から150m程の所にある「絹撚(けんねん)記念館」に入る。旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟を、平成25年(2013)より郷土資料の展示施設として一般公開している外観も内部も素晴らしい建物だ。明治35年(1902)当時の農商務省の殖産興業施策によって、現在のJR桐生駅南口の一帯に「桐生撚糸合資会社」として広大な工場が建てられた。大正期には日本最大の撚糸工場に発展したが、昭和19年(1944)軍需工場となり戦後は、現在地での操業は再開されなかった。(理由は後述します。)現在残っている大谷石造り洋風建築の旧事務所棟は、桐生市指定重要文化財になっている。

絹撚記念館

絹撚記念館の内部

 新川橋通りに出て北上、JR両毛線をくぐって広見通りを右折して東に400m程行くと、右手に大正浪漫漂う美しい「桐生倶楽部」会館が見えてくる。桐生倶楽部は、明治33年 (1900)に設立された「桐生懇話会」が元となって誕生した産業人の社交機関だ。倶楽部設立資金や会館建設資金は、ほとんどが有志による寄附金で、織物業を中心とした先進的な地元経営者の情報交換や交流の場であった。そして桐生周辺の有力者が協力して、鉄道や銀行の誘致、電話設置等に尽力し、桐生町発展の基礎を作った。現在でも活動は続けられていて、地域の文化活動の拠点となっている。創立時から倶楽部の管理•運営は全て自主財源で賄い、今でも会費により運営されている。大正八年(1919)に竣功した会館の建物は、平成8年(1996)に国の登録有形文化財に指定されている。水曜日、土曜日、日曜日、祝日は休業日だったため、内部の見学ができなかった。残念。

建築様式はスパニッシュコロニアル様式というそうです。

 本町通りまで戻り700mほど北上すると右手に「有鄰館(ゆうりんかん)」と「桐生歴史文化資料館」がある。ここから北は、江戸期から昭和初期にかけて、桐生織物業の発展の中心となった地区で、多種多様な建築物が建ち並ぶ「重要伝統的建造物群保存地区」になっている。

 旧矢野蔵群「有鄰館」は、享保2年(1717)に現在の「矢野園」の創業者である矢野久左衛門が、近江より移り住んで、二代目、久左衛門が寛延2年(1749)現在地に店舗を構えた老舗で、酒・醤油・味噌などの醸造業が営まれていたころの蔵群が残っている。敷地内には合計11棟の蔵があり、古いものは天保14年(1843年)造。ビール蔵を除いた建物が桐生市指定重要文化財になっている。周辺に残る歴史的建造物や近代化遺産などと共に町並み保存の拠点となっている場所だ。現在はコンサートや舞台、ギャラリーなどに活用されている。

 私が伺ったときもコンサートのリハーサルをやっていた。レンガ倉庫内の雰囲気は重厚で、おそらく音響も良いのだろうと思った。

 隣接する「桐生歴史文化資料館」の裏手には、隠れ家的な雰囲気の料亭「近江屋喜兵衛」がある。この伝統的建築物は矢野商店が旧前原邸を取得して日本料理店として公開しているものだ。

 古くから織物業を営んでいた前原家の九代、傳次郎は、明治8年(1875)祖母の実家であった岩本家から現在地を買い取った。岩本家は江戸時代から桐生の有力な買継商であった。傳次郎の長男、前原悠一郞は、明治35年(1902)「模範工場桐生撚糸合資会社」を創業、大正期には日本最大の撚糸工場「日本絹撚株式会社」となった。先ほど見てきた「絹撚記念館」だ。

矢野園。看板にも歴史を感じます。

大きなレンガ倉庫です。

明治23年制銅版画

日本料理「近江屋喜兵衛」の入り口

 本町通りを150m程行くと左手に伝統的建造物っぽい建物の花屋さんがある。桐生市役所発行の「まち歩きモデルコース」に、旧書上(かきあげ)商店(花のにしはら)と出ている明治期の建物だが、なぜ街歩きマップに掲載されているかというと・・パンフレットから引用する。『桐生を代表する買継商、書上文左衛門の商店店舗。旧書上商店は、3代文左衛門の時、買継商として店を構え発展。11代文左衛門の時(明治期)、横浜へ支店をつくり織物輸入業を開始、さらに上海にも出店。当時「関東織物買継王」とも称された。12代文左衛門の時、店員は100人を越え、繁盛をなし、戦後まで営業を続けた。旧店舗は現在花屋さんとなっている。』とある。豪商だったようだ。

 旧書上商店 花のにしはら

旧書上商店の向かいにある「桐生ものづくり協同組合」

 1ブロック先の交差点を左折して80m程行くと「曽我織物工場」の大谷石造りのノコギリ屋根が見えてくる。写真を撮ってから本町通りに引き返し40m行くと「まちなか交流館」がある。

 まちなか交流館(旧眞尾(ましお)邸)は、明治初期に建てられた、店、工場、住居、蔵などが一体となった桐生新町の屋敷形態を留めた伝統的建造物だ。また、桐生市重伝建地区公開活用施設として、保存地区内の建造物の修理、新築、耐震、補助金、空き家、空き店舗などの相談も受け付けている。

まちなか交流館の向かいには「平田家住宅・旧店舗」がある。嘉永4年(1851)創業の雑貨商。染料、生糸なども取り扱ったが、戦時中の物資不足で廃業した。明治時代の町家建築の貴重な建築物だ。平成18年(2006)に主屋、土蔵が国登録有形文化財に登録された。蔦の絡まる重厚な店蔵は、川越や栃木の蔵造りの街並みの情景を彷彿とさせる。

大谷石造りの曽我織物工場

平田家住宅・旧店舗

 まちなか交流館の北隣にはノコギリ屋根の「無鄰館」(旧北川織物工場事務所ほか)がある。大正5年(1916)から大正10年(1921)にかけて建てられた建物群は国の登録文化財に指定されている。現在はアトリエ、ギャラリー、カフェなどに活用されている。

 その先のブロックには、明治37年(1904)創業の「森合資会社」がある。事務所は大正3年(1914)の建築。当時の洋風建築の要素を取り入れつつ、玄関庇や窓の庇は格式の高い和風にするなど和様混在の擬洋風建築だ。屋敷内通路をはさんで隣に建つ「森家住宅石蔵(旧穀蔵)」には「天然染色研究所」の看板が出ていた。共に国登録有形文化財に指定されている。本町通りはこの先の「桐生天満宮」前の交差点で終了となり、その先は66号桐生田沼線になる。

森合資会社の擬洋風建築

森家旧穀蔵 天然染色研究所

 桐生新町の要、天満宮にお参りする。桐生天満宮のHPを見ると、起源は日本武尊の父、景行天皇の時代というから大化の改新前、神話時代にまで遡るらしいが、文献によると、文治三年(1187)に当地を支配した桐生家が守護神として崇敬した「磯部明神」に、観応年間(1350年頃)京都より北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称したのが始まりだという。

 天正九年(1581)に徳川家康が東征の際、祈願所として朱印地を賜わり、天正十九年(1591)下久方村宮内から現在地に遷座した。その後、境内で織物市が開催されるようになり、後の桐生織物繁栄の礎となった。 現在の社殿は寛政五年(1793)に落成した当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物で、国指定重要文化財の本殿・幣殿の外壁には極彩色の精巧かつ華麗な彫刻が施されており、内部にも同様な彫刻とともに壁画も描かれている。 拝殿でお参りしてから裏に回って、是非とも本殿の彫刻を見てほしい。

 話が飛んでしまうが、ここから南に20km程行った利根川右岸の熊谷市妻沼に「聖天山歓喜院」がある。国宝に指定された本殿、聖天堂があり見事な彫刻が施されている。(文末に写真を載せます。)ここ天満宮の彫刻を見ていて記憶が蘇った。

桐生天満宮拝殿

本殿の見事な彫刻

 天満宮の東側に「群馬大学工学部同窓記念会館」がある。イギリス建築様式の美しい建物で、大正5年(1916)に「桐生高等染織学校」の校舎として建てられた。本館の一部とそれに附随する講堂が残っていて、守衛所、旧桐生高等染織学校正門とともに国の登録有形文化財に登録されている。桐生織物の近代化と発展に貢献した、近代化遺産のひとつだ。

 再びご近所の類似した建物を紹介する。ここから南に25km程行った埼玉県深谷市に「県立深谷商業高等学校」がある。大正11年(1922)に建てられた薄緑色の「深商記念館」は、国の登録有形文化財に指定されている美しい建物だ。(文末に写真を載せます。) 大正浪漫漂う洋風建築は、厳粛だが堅苦しくなく、優雅でお洒落だ。

旧桐生高等染色学校正門

 桐生天満宮前の交差点まで戻り、東に1ブロック行くとノコギリ屋根の煉瓦造りの工場を改装した「ベーカリーカフェ レンガ」がある。大正9年(1920)に建てられた、ノコギリ屋根工場は、事務所、染色場、主屋、蔵も含め国の重要文化財に指定されている。中に入って食事でもと思ったが、観光客が大勢いたので隣のうどん店で昼食を摂った。やさしい店主さんに冷水を補充させてもらってから、西に進んで山手通りを左折、200m程行くと大きなノコギリ屋根工場が現れた。「桐生絹織株式会社」だ。

 昭和10年代に建てられたノコギリ屋根工場は、四連の木造瓦葺き、南北26メートル、東西43メートルという市内最大級のノコギリ屋根工場で、最大で60台のジャカード織機が稼働していた。現在でも輸出用の広幅織物を製造している。

 ちなみに、桐生市のHPに掲載されている「市内ノコギリ屋根工場一覧」を見たら28カ所もあった。

ベーカリーカフェ レンガ

桐生絹織のノコギリ屋根

 山手通りを西に1km程進んで右折し、急坂を(この急坂は半端ない!)自転車を押して登ると登録有形文化財「水道山記念館」がある。昭和7年(1932)に配水事務所として建てられた桐生市の近代化遺産の一つだ。水道局の事務所とは思えない、かなりモダンな建築物だ。先ほど見てきた「桐生倶楽部」と似た雰囲気を感じる。現在は市民に開放され、会議室として利用されている。内部を見たかったが、入れるのは玄関口だけで会議室は見学できなかった。高台に立地しているだけあってテラスからの眺望は爽快だった。

瀟洒な水道山記念館

急坂を慎重に下ってから、雷電山(水道山)を回り込むように北に進んで「旧須藤邸」(須藤家住宅)に向かう。かつて桐生を代表する豪商、金居家の住居であったところだ。

 日本の近代産業を支えた桐生絹織物生産者の一人である金居善太郎により明治9年に創業した「金善織物会社」は、明治末から昭和初期の桐生を代表する輸出織物工場であった。大正期には個人経営による工場としては桐生で最大規模の会社となったが、昭和18年7月に発布された「戦争増強企業整備令」により、織機の供出と工場及び付属物の転用が命じられ、営業困難となり金善織物会社は昭和19年に解散した。

  桐生市HPによると、『昭和19年2月までの桐生の転廃工場は総事業所4,699のうち4,553、織機12,941台のうち10,072台が供出された。(桐生市史別巻)』とある。つまり、織物を作る機械の78%が供出させられ、それによって97%の工場が廃業、もしくは移転を強いられたというのだから、これはもう壊滅的な打撃だ。経済的には桐生市全域が空襲で焼け野原にされたも同然だ!。

 毎年8月になると大東亜戦争の映像が放映される。原爆や大空襲の悲惨な映像が繰り返し流される。しかし「戦時下だから絹織物など戦争の役に立たない」とされ、軍需工場に変えさせられて、数百年続いた絹織物産業が壊滅的打撃を受け、衰退の一途を辿ったことを多くの国民は知らない。維新後の文明開化を推進できたのは、世界的に最高水準の日本の絹織物のおかげであったことを大きな声で言いたい! ・・・散策報告を続けます。

 戦後、荒廃した金居家の建物を、洋風建築に造詣の深い、整骨院「名倉堂」の須藤寿作が昭和30年(1955)に購入し、修理・改修を施し別宅として使用していた。その後、令和3年(2021)歴史的建造物の保存活用を目指す民間企業、ミタカホールディングス株式会社が、須藤家より継承し現在に至っている。

 登録有形文化財に指定されている素晴らしい邸宅で、まるで迎賓館のようだ。現在は、撮影会、展示会、各種イベントなどの企画・公開事業を行っているが、一般公開は毎月第一土曜日のみ。残念。外観を遠くから1枚だけ写真に撮らせて頂いた。

旧須藤邸。豪華な洋館です。

 南に500m程行って、3号前橋大間々桐生線を右折して西に進み、上毛電鉄、渡良瀬川を越えて行くと、国道122号相生町二丁目交差点の手前右手に「桐生明治館」(旧群馬県衛生所)の美しい建物が現れる。

 桐生市HPより沿革を見てみる。『当初は「群馬県衛生所」として明治11年に現在の前橋市大手町に建てられ、医学校を併設していたが、明治12年に衛生所が廃止され、明治14年には医学校も廃校となった。昭和4年、相生村の現在地に移築されて「相生村役場」となった。昭和51年、明治初期の擬洋風建築であることなどが評価され「旧群馬県衛生所」として重要文化財に指定された。「桐生市文化財整理室」として使用された後、昭和61年、「桐生明治館」の愛称で開館した。』(要約)とある。洋風建築の中に日本的なところを垣間見ることができて興味深い。そして、とにかく美しい。私感だが文京区小石川植物園内に保存されている「旧東京医学校本館」と雰囲気が似ている。(文末に写真を載せます。)

シンメトリーな建物。

気持ちの良い2階バルコニー

 1階の展示室で古めかしいピアノを見つけた。再び桐生市のHPを見る。『このピアノは、桐生随一の豪商第12代書上文左衛門の経営する書上商店横浜店が、大正11年(1922)に納入したもので、内部に『周興華洋琴専製所 エス・チュ-ピアノ工場製 日本横浜山下町123番地』の刻印があります。』とあった。先ほど見てきた「花のにしはら」の書上商店だ。このような大変貴重なピアノが桐生市にあるということは、桐生の豪商達の繁栄ぶりを伺い知ることが出来る。

  また、ここの職員の方達の言葉の節々に、この記念館に対する深い愛情を感じることができた。すごく大事なことと思う。

貴重なピアノが置いてありました。

 国道122号を南東に進んで、桐生大橋を渡って桐生市内に戻った。今晩は桐生駅近くのビジネスホテルに泊まって、明日は朝から「わたらせ渓谷鉄道」を巡る予定だ。

  桐生市は、明治から昭和初期に架けての洋風建築を散策するのに最高の街だ。

                                            2025.8.16

 

 

 

    本文で紹介した所の参考写真です。

 

聖天山歓喜院(熊谷市妻沼)

深商記念館(深谷市)

旧東京医学校本館(東京都文京区)

小江戸川越の店蔵(川越市)