歴史往来

      下総の国 千葉 国府台

 

 

今回歩いたコース

「矢切の渡し」に行かずに市川歴史博物館に行くコース

 歴史往来

                         下総国  国府台                

 

 江戸川の東岸、下総台地は旧石器時代より人々が集ったところで、遺跡が多数存在している。国府台(こうのだい)には法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)などの遺跡が点在し、国府台近辺だけでも約30ヶ所もの古墳があったとされている。律令政治が始まると、この地に下総国府、総社が置かれ、聖武天皇の詔(みことのり)により国分寺、国分尼寺が建てられた。

 平安時代中期の昌泰元年(898)に上総介(かずさのすけ)(国司)に任じられた桓武天皇の曾孫、平高望(たいらのたかもち)は、子の良望(よしもち)、良兼(よしかね)、良将(よしまさ)らを関東に派遣し、上総国はもとより常陸国や下総国にまで勢力を拡大して坂東に強力な武士団を形成した。これが武家平氏と呼ばれる「板東平氏」だ。桓武平氏の流れをくむ一族は、親王の血族・貴族として活動し、現地で大きな勢力を持つ「軍事貴族」となった。

 その後、高望の側室の子、五男の良文(よしふみ)も関東に下り、その子孫が坂東各地に散らばってさらに勢力を広め、後に上総氏・千葉氏・相馬氏・三浦氏・梶原氏・秩父氏・畠山氏などの武家、「坂東八平氏」と呼ばれる大勢力となった。

 下総国千葉荘に拠点を置いた桓武平氏の平忠常(たいらのただつね)の曾孫である千葉常兼(つなかね)の孫の千葉常胤(つねたね)は、保元元年(1156)の「保元の乱」に出陣し源義朝(みなもとのよしとも)の指揮下で戦った。その後、治承4年(1180)伊豆国で挙兵した源頼朝(よりとも)も常胤に加勢を求めてきた。『吾妻鏡』によると常胤は一族300騎を率いて下総国府(現、市原市国府台)に赴き頼朝に参陣したとされている。

 

現在の地図と国府の推定位置

 その後も在地領主、武士の政権を目指す鎌倉幕府の創設に尽力し、頼朝の信頼を得た常胤は、文治5年(1190)頼朝が上洛した際には報償を得て、鎌倉時代には下総の守護となった。室町時代になっても室町幕府より下総守護の地位を保障された。

 戦国時代に入ると太田道灌、資忠(すけただ)が国府台に城を築き、国府周辺は里見氏、北条氏の戦いの場となった。永禄7年(1564)の合戦では五千人が討ち死にしたと伝えられている。

 そして第31代当主千葉重胤(しげたね)の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。

 江戸時代になり、元和2年(1616)、関東河川の定船場、渡船場は江戸防衛上重視され、江戸川では水戸街道の渡し場(金町~松戸間)には「金町松戸関所」、佐倉街道の渡し場(小岩~市川間)には「市川関所」が置かれ、佐倉街道の市川宿は道中奉行の支配下とされた。

  明治時代になると総寧寺(そうねいじ)の寺領であった国府台上には旧陸軍の練兵場、火薬庫、陸軍病院などの軍事施設が造られ、一帯は兵舎が建ち並ぶ軍部の町となったが、太平洋戦争の終結によって兵舎が校舎に変わり、埋蔵文化財調査のないまま、大学や高校、病院、運動施設などが次々に建てられた。現在、下総国総社跡とされているスポーツセンターの周辺には、国立国際医療研究センター、県立国府台高校、和洋女子大学、千葉商科大学などがあり発掘調査は難しい。

 国府(国庁、国衙)のあった位置は正確には判明されていないが、これまでの発掘調査で、区画を区切る溝状遺構や、土を突き固め建物の基礎とした版築遺構(はんちくいこう)、下総国庁につながるとみられる道路遺構などが発見されている。(国府の規模は650m四方、国衙域は東西幅が約220mだったと推定されている。)

市川市教育委員会は「下総国府は現在の国府台スタジアム南側から千葉商科大学キャンパス北側にかけての一角にあった。」と推定している。

 

 歴史散歩に出かけます。午前中は小雨が降っていたので、自転車を持たずに出発。JR日暮里駅で京成本線に乗り換えて隅田川、荒川、中川、江戸川を越えて千葉県市川市に入り国府台駅で下車した。改札を出てすぐの通りは旧松戸街道だ。何度か来たことのある所だが、(写真も2010、2015撮影のものを一部使用しています。)まずは江戸川縁に出て「川関所跡」に向かう。江戸川を渡る街道には渡し場が設けられ、人々や物資は船を使って対岸に運ばれた。

川関所跡。川に架かる鉄橋は京成本線の江戸川橋です。

 私が「史跡散歩の師」と崇める村尾嘉陵(むらお かりょう)も、3回ほど真間、国府台、国分寺跡を散策に訪れていて『江戸近郊道しるべ』に記しているので、文化四年(1807)の関所の様子を見てみる。

・・されど関は名のみして、入方も出るかたも、杉の丸木にて、門となせるのみにて、戸ざしもなきは、誠に君がよのめでたきためしなるべし・・』とあり、太平の世が続き、関所も取り締まりが緩くなっていた事がわかる。また、渡船の際の記述に『・・中流に棹さす程、手あらひ口すゝぐに、水の美なる譬ふべきなし・・』とあり、口を漱ぐほど水質が良かった事がわかる。(村尾嘉陵については文末に記載します。)

 一方、江戸川は関東の物流を支える水運の大動脈として、江戸初期から重要な役割を担っていた。北海道、東北地方から江戸に物資を運ぶための航路は、仙台から江戸に向かう途中に、中継地となる良好な寄港地がなかったので多くの船が一気に銚子港まで来て、そこから房総沖をぐるっと回って江戸湾へと入る航路が使われていた。しかし黒潮の流れに逆らって南に下り、江戸湾に入ることは難しく、かなりの日数を要した。そこで積み荷を銚子港で下ろし、川舟に積み替えて利根川を利用して運ぶ方法もとられた。

 江戸時代初期に江戸市中の水害対策として行われた「利根川東遷事業」などの河川工事により、関東地方の川筋は大きく変えられていて、利根川は関宿(せきやど)で、銚子にいたる利根川と東京湾に至る江戸川とに分流されていた。ここを回り込めば利根川と江戸川の通航が可能となる。しかし関宿付近は浅瀬も多く、水量調整のための堤防「棒出し」により川幅も狭められていた。そのため大型船の通航が困難で、途中で荷物を下ろし利根川、江戸川間を陸路でショートカットする方法もとられたほどだ。

 明治期になり貨物の輸送量も増えたため、関宿を通らずに運行でき、陸路の運搬も無くす方法が考案された。それが「利根運河」だ。陸路で運んでいた所に運河を通せば、航路も短くなり、荷物の積み下ろし作業も省け、時間も労力も軽減する。

 明治23年(1890)オランダ人技師ムルデルの設計による全長8.5㎞の人工運河が開通した。利根運河の開通によって航路は約40㎞短くなり、江戸湾から銚子までの約144kmを18時間で行き来することが出来るようになった。それまで3日かかっていた日数が、わずか1日で済むようになった。

 時間が短縮されたのは運河だけが要因ではない。「利根運河船舶航行変遷」を見ると明治27年に運河を通過した蒸気船は723隻だったが、翌年28年には1.383隻と倍増している。和船から蒸気船へと時代は移っていったのだ。明治40年頃には運河を通過する船舶の種類は汽船が和船を上回っている。大きな帆を張って進む和船に変わって「通運丸」のような外輪蒸気船が、普通に見られるようになったのだ。定期航路も開かれ、江戸深川や蛎殻町から銚子までの直行便も運行されるようになり、最盛期には年間約4万隻の船が利根運河を利用した。また、醤油、ミリンなど重たい荷を運搬しなくてはならない醸造業などが川沿いの各地で発展し、銚子、野田、流山は醤油、ミリンの一大産地となった。

 しかし、明治30年(1897)に銚子まで鉄道が敷かれ、蒸気船で18時間かかるところを、汽車は5時間で走った。貨客船舶会社は鉄道に対し、運賃を値下げするなどして対抗したが、大正8年(1919)、ついに利根川水系を走る貨客船「通運丸」は姿を消した。

 鉄道、トラック輸送が主流となった現在でも、利根運河は土木遺産として残っていて、茨城県守谷市大利根運動公園の対岸から、埼玉県吉川市吉川公園自由広場対岸まで、運河沿いを散策することができる。(ここから20kmも上流のことですが、江戸川について語るときに利根運河は外せないので・・。ちなみに最寄り駅は東武野田線「運河駅」です。市川に戻ります。)

 

 国府台駅から松戸街道を北上して真間川を渡って坂道を上り始めると右手に「国府神社」の急な石段が現れる。日本武尊を祀る寛治元年(1087)に創建された古社で、明治時代に陸軍兵営設置のため当地へ遷座している。別当寺の根本寺は国府台5丁目の寺町にある。石段を登ると広くはないのだが静かな空間が広がっていて、神域といった感じがする。

静かな国府神社

 国府神社の先を右折して150m程行くと瀟洒な洋館が現れる。明治、大正期の政治家木内重四郎の邸宅であった建物の洋館部が再築された「木内ギャラリー」だ。家主であった木内家は千葉氏の末裔で、三菱の岩崎家、一万円札の渋沢家とも姻戚関係にある名家だそうだ。明治期の洋館は独特な雰囲気があるので、外観だけでなく内部を鑑賞することをお勧めする。

旧木内家洋館

 住宅街の小道を東に進んで北側から「弘法寺(ぐほうじ)」に入りお参りする。縁起は奈良時代、天平九年(737)、行基(ぎょうぎ)がこの地に立ち寄った際、「手児奈(てこな)」の哀話を聞き、その心情を哀れんで堂宇を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけたことに始まる。平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師が求法寺を七堂伽藍に再建し「弘法寺」と改称。鎌倉時代に日蓮宗に改宗。江戸時代には御朱印も得ていたが、明治21年(1888)火災により、全山、悉く灰燼に帰した。現在の諸堂は明治23年(1890)に再建されたものである。

弘法寺仁王門

 大きくて立派な寺院だ。真間川のある南側の旧宿場から来ると、豪快な石段があり高齢者にはキツい上り坂になっている。石段の下には「手児奈霊神堂」がある。縁起となった「手児奈の哀話」とは?、『その昔、真間の里に手児奈という、美しい娘がいた。その美貌なるが故に手児奈を娶りたいと男たちが争った。心優しい手児奈は男たちが互いに争い傷つくのを見て、ついに真間の入江に身を投げてしまった。』というものだ。

 いつの世も美女争奪戦はある。手児奈を哀れんだ村人は祠をつくって手厚く葬り、手児奈の話を語り継いだところ、万葉歌人、山部赤人(やまべのあかひと)がこの地を訪ねた際に哀話を聞き、和歌に歌ったことから手児奈の物語は広く人の知るところとなった。その後、弘法寺の上人が『良縁成就』『孝子受胎』『無事安産』『健児育成』の女神として祀り、多くの信仰を集めている。

手児奈霊神堂

 その手児奈さんが使ったとされる井戸が隣接する「亀井院」にあるという。江戸期にはどんなところだったか、前述の嘉陵の「江戸近郊道しるべ」から引用する。『その井と名づくるものは、山の厓の凹なる所に、自から山水のしたゝり溜るを、やゝ人作を加へて、へなという土のある所を、少し堀くぼめて、ひさくもて汲もしつべく、そのかみのまゝなるを見し也、・・』とあり、粘土質の所を少し窪めて水を溜め、柄杓で汲むだけの自然の水場だったようだ。

 市川手児奈通りを北上して持国坂を登って水汲み坂を登ると「下総国分寺」前に登り着く。手児奈霊神堂から1km程だ。創建時の国分寺跡地に建てられた後継寺院で、かつては「金光明寺」と号していたというから法灯を継承しているのだろう。(国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」です。)戦国時代の国府台合戦や幾度かの火災により詳細な文献は失われているが、境内に法隆寺式伽藍配置の金堂跡や七重塔跡などが発見され、北側には瓦を焼いた窯の跡(北下瓦窯跡)も確認されている。

昭和初期に建てられた下総国分寺の現本堂

 208年前の文化14年(1817)に嘉陵が訪れたときの様子を見る。『かやふける二王門を入て、本堂七間ばかりに五間ほどもありぬべし、観世音を安置す、堂の西がはに房あり、東に銀杏樹の大あり、其傍に聖武のむかしの堂の礎石三ツかさねて、上に金銅の毘沙門天の像六尺許なるを置、礎石の大さ、わたり下の方にて四尺余、厚さ二尺七八寸もありぬべし、古物いはでもしるくみゆ・・』とあり、『堂のうしろにて、古瓦の片二三尋得てかへる、・・』とある。しっかりお土産も調達したようだ。

 墓地の北側の道を北西に400m程行くと「国分尼寺跡公園」がある。整備された公園で伽藍配置もわかりやすい。木陰で休んでいると静けさを感じる。クルマの音も、人のざわめきも聞こえない。静かだぁ~

国分尼寺跡公園。よく整備されています。

 南に少し歩いて右折して坂を下り、登り直したところに公園があり、その先が市川スポーツセンターのある「国府台公園」だ。ここに「下総国総社跡」の石碑がある。国分寺、国分尼寺、国府、総社は、全国ほとんどがご近所さんだから、市川市教育委員会が、この南側に国府があったと推測するのは尤もなことだ。

国府台公園の下総国総社跡の石碑

 松戸街道に出て300m程北上し、左折して里見公園に向かう。ここは「国府台城跡」で、壮絶な合戦が繰り広げられた場所だ。文化四年(1807)の様子を嘉陵に語ってもらう。『此城にて、あまたの人闘死せしゆえ、今にいたりて、雨あり月くらき夜は、時として太刀打合音、矢叫びの声、そこともしらず聞ゆと云。懸崖の上平らかなる所、南北三四十間ばかり、東西は、すこしたらず、城内広間ありし趾也と云、今は小笹のみ生いしげりて、何一つのこるものなし。

 「總寧寺(そうねいじ)」にお参りする。全国の曹洞宗寺院を統括する曹洞宗関東僧録司という格式の高い寺院だ。創建は永徳三年(1383)、戦国期の争乱により天正三年(1575)関宿に移転、度重なる水害により寛文三年(1663)国府台に移転してきた。徳川幕府から寺領として百二十八石五斗余り、山林六万七千余坪を与えられたが、明治五年(1872)、学制の施行によって広大な寺領には大学の校舎が建てられ、後に陸軍用地となり、昭和33年(1958)に現在の「里見公園」となった。

總寧寺本堂

 松戸街道に出て北に向かうと北総線矢切駅の手前に寺町がある。大正十二年(1923年)の関東大震災で被災し移転してきた寺院が多く集まっている。日本の建築物は木と紙と藁で造られていたから燃えやすい。江戸は火事が多かった。そして震災、戦災があり、多くの寺院が郊外へ移転した。世田谷区烏山や練馬区練馬にも寺院が密集している寺町がある。 

 

   泉養寺~ 深川を開拓した深川八郎右衛門を開基とする天台宗の寺院。関東大震災で移転。

回向院市川別院~ 昭和二年(1927)に開かれた両国回向院の別院。

  西棲院~ 元禄8年(1688)浅草に創建、関東大震災により被災し当地へ移転。

中原寺~ 戦後の昭和22年に現在地に移転。浄土真宗の寺院。

 松戸街道から西に100m程入ったところに「栗山給水場」があり、土木学会推奨土木遺産、国登録有形文化財に認定されている美しい給水塔があるので見に行く。昭和12年(1937)に造られ、現在も現役で使用されている水道施設だ。(ここから600mほど西北西に行くと、坂川と江戸川が合流する所に明治37年(1904)に造られ、近代化産業遺産に認定された4連アーチのレンガ造りが美しい「柳原水閘(すいこう)」があるが、今回は時間的にスルーします。)

美しい栗山給水塔

 松戸街道に戻り600mほど北上して左折すると「矢切神社」がある。宝永元年(1704)の大洪水で多くの被災者が出たのを機に建立された下矢切村の鎮守社。そんなに古い神社ではないが、歌謡曲「矢切の渡し」が大ヒットしたため観光客が押し寄せ、ピーク時には神社と江戸川の渡し場までを結ぶ観光馬車が出ていたほどだ。今は静まりかえっている。

矢切神社。屋根のコテ絵が珍しい。

 神社の南側に「矢喰村庚申塚」があり、村名の由来などが書かれた解説板が立っている。それによると『・・国府台合戦の主戦場となったため、田畑は荒らされ人々は傷つき逃げまどった。この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり矢切り、矢切れ、矢喰いの名が生まれた。』(要約)とある。戦いの最中に「矢が尽きた」場所だからかと思っていたが違っていた。しかし矢が尽きるほど激しい戦いがあったことがわかる。

矢喰村庚申塚

 西に進んで河岸段丘の坂を下って、広大な畑の中を800m程行くと江戸川土手にたどり着く。土手を上った先が、有名になった「矢切の渡し」だ。ここに渡し場ができたのは江戸時代初期。まだ関所の取り締まりが厳しかった頃だ。関所破りは重罪だったが、川の両岸に田畑を持つ農民は耕作のために関所の渡しを通らずに行き来できる「農民渡船」という特権を持っていた。矢切の渡しにはこのような庶民性があったから演歌になったのかもしれない。

対岸の階段下が葛飾区柴又側の矢切の渡し場です。

 さて、対岸は東京葛飾柴又だ。嘉陵はここを渡って柴又帝釈天を経て帰宅したようだが、現代人の私は、北総線矢切駅に戻って電車で帰宅する。                                                      2025.6.15

 

  村尾嘉陵と『江戸近郊道しるべ』について

 

 『江戸近郊道しるべ』という本は、徳川清水家の御広敷用人(おひろしきようにん)、村尾正靖(むらおまさやす)(号は嘉陵(かりょう))が、文化四年(1807)から天保五年(1834)までの27年間に、江戸郊外を旅した記録をまとめた旅行記だ。しかしこの題名のついた本が江戸時代に存在したわけではなく刊行もされていない。

 作者本人の自筆本は国立国会図書館にあり、その写本を翻刻して出版されたのが大正六年(1917)出版の「江戸叢書(えどそうしょ)」だ。この本は江戸叢書刊行会より刊行された江戸の地誌に関する書籍を載録したシリーズもので、全12巻から成るその第一巻に「嘉陵紀行」という題名で翻刻されたのが世に出た最初である。それを昭和60年(1985)に平凡社東洋文庫がさらに翻刻して「江戸近郊みちしるべ」という一冊の本として出版した。編注を行った朝倉治彦氏は、自筆本と二種類の写本から(国会本の写本は「四方の道草」と題し、内閣本の写本は「嘉陵紀行」と題している。)地域別に文章、挿絵を照合、補充して翻刻し直した。この構成編集作業は完璧とも言える仕事で、現在多くの人に読まれている嘉陵の記録はこれを元にしている。

 嘉陵の紀行文は四十章ほどで、それを地域別に五篇に分類している。旅は西は高幡不動、東は船橋や柏、北は桶川、南は川崎にまでおよんでいる。詳細な文章と感性豊かな情景描写は、当時の江戸近郊の美しい風景が鮮やかに目に浮かんでくる。また、嘉陵は幕府勤務の武士だけあって知識、教養もあり、行く先々で歌を詠んだり、絵図を描いたりしている。方向、距離、時間、目印となるものの記述も正確で、彼の足跡を追う人々にとって、彼の親切な記述に感謝の気持ちがわいてくる。

 村尾嘉陵は宝暦十年(1760)に生まれ、天保十二年(1841)五月二十九日に没した。満81歳だったのだから当時としてはかなりの長生きだ。彼が旅の記録を付け始めたのが47歳の時、そして74歳まで続けらた。74歳でこれだけ歩くことが出来ると言うことはかなりの健脚だ。そして、人は高齢になるとしだいに「今まで楽しめたことが楽しくなくなる。」という好奇心の老化が見られるのが当然の事だが、彼の好奇心、感性は衰えを知らず、行く先々で若者のように感動している。

 徳川御三卿、清水家の御広敷用人(城や屋敷の殿様以外の男性が立ち入れない大奥、奥方と外部との取次役)というのは、主君の信用を得た人物が任される役職だ。因って55歳ぐらいまでは、めったに出かけられないほど多忙な日々を過ごしていたようだ。町人や農民までもが大山詣りや伊勢詣りに数日~数ヶ月かけて出かけていた時代だが、御広敷用人は時間的にも経済的にもそのようなことはできず、また出張もなかったようだ。そんなわけで旅は日帰り、江戸近郊に限られ、遠方には出かけていない。それにしても日帰り旅で一日40km以上歩くことは現代人には大変なことに思われるが、当時の移動方法は徒歩が基本で、江戸人はとにかくよく歩いた。

 

 私も嘉陵が江戸近郊ウォーキングを始めた40代後半頃から歴史散歩に出かけるようになり、先々で感動し、写真を撮って文章に残してきた。嘉陵は74歳まで歩き続けたので、私もなるべく長く散策を続けたいと思う。

 

 参考までに江戸近郊の情景がわかる本をいくつか記します。

 

1.江戸名所図会        斎藤長秋・莞斎・月岑、長谷川雪旦   天保5年(1834)

2.新編武蔵風土記稿   昌平坂学問所地理局             文化・文政期(1804~1829)

3.武蔵名所図会        植田孟縉                            文政6年(1823)

4.四神地名録            古松軒                                寛政6年(1794)

5.江戸近郊道しるべ 村尾嘉陵                            天保五年(1834)

6.廻国雑記             道興准后                        文明18年(1486)

7.遊歴雑記     十方庵敬順                        文化9年(1812)

 

明治以降

1.武蔵野歴史地理  高橋源一郎                        昭和3年(1928)

2.武蔵野話             斎藤鶴磯                            大正15年(1926)