歴史往来
しもつけの里 栃木
散策したコース 31.2 km
天平の丘公園
歴史散歩
下野国 栃木
古墳時代から関東地方の北部に「毛野(けの)」と呼ばれる政治勢力があった。群馬県内には墳丘長が80メートルを越す大型古墳が45基、総数では約1万3000基もの古墳が発見されている。また200mを超す巨大な古墳があるのは、国内で畿内、吉備、毛野だけであることから、毛野(群馬県、栃木県)は古代日本の主要国であったと思われる。ちなみに60メートル以上の古墳は大和の18基に対し、上毛野では89基も見つかっている。
「毛野」の呼び名は東国を指していた狗奴(くぬ)に、そこに住む夷(えみし)を指す毛人と、野を組み合わせて毛野(けぬ)という漢字表記を当てたという説がある。しかし『古事記』『日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。和銅六年(713)に編纂された「常陸国風土記」によると「毛野河(けぬがわ)」は筑波西部の郡の境界とある。常陸国と下総国の境界を流れる現在の「鬼怒川」と思われる。けの、けぬ、きの などの発音から、奈良県を水源とする「紀ノ川」との関係を考えるのは飛躍し過ぎだろうか?。常陸国風土記筑波郡の条には「筑波の県は、古、紀の国と謂いき」との記載もある。
古代律令制では東山道に属し、現在の群馬県あたりは「上毛野国」、栃木県あたりは「下毛野国」とされた。下毛野国の国造(くにのみやつこ)である下毛野氏(しもつけのうじ)は、対蝦夷(えぞ)、対朝鮮の外交、軍事にも携わっており、朝臣(あそん)姓を賜り中央政庁でも活躍した。中央との関わりが深かったこともあってか、持統天皇の時代(687~696)に新羅人14人が帰化し、下野に居を構えている。
天慶年間(938~947)に平将門を討伐した藤原秀郷(ひでさと)(俵藤太たわらのとうた)は下野守、押領使(おうりょうし)(警察、軍事の官職)となり、子孫は小山城(小山市城山町)に居し、平安末期には宇都宮氏、那須氏と共に源頼朝(みなもとのよりとも)に従軍して功を挙げた。その後の戦国時代には、下野国は足利氏、結城氏、佐竹氏など有力大名の勢力争いの場となり、江戸時代の幕藩体制下では、宇都宮藩、壬生藩、大田原藩、佐野藩、足利藩、喜連川藩などの諸藩が成立した。下野国には奥州や日光に向かう、奥州道、会津道、日光道、例幣使道などの交通の要衝がいくつもあり、また利根川水系などの河川交通網により水運機能も整備された。
明治になって日光県が置かれた後、明治四年(1871)の廃藩置県により橡木(とちぎ)県、宇都宮県の管轄となり、明治6年(1873)に宇都宮県が栃木県に合併され、ほぼ現在のかたちとなった。
しもつけ風土記の丘資料館の埴輪
池袋までの列車運行に事故による遅れが出て、予定していた列車に乗ることが出来なかったので、少しでも早く到着するために大宮から小山まで一駅だけ新幹線を使って、JR宇都宮線自治医大駅に向かった。11:30、自転車を組み立てて北に500m程行って、砂ヶ原街道310に出て右折、東に2km程行って右折すると「龍興寺(りゅうこうじ)」がある。山門に向かう参道の看板に『鑑眞大和上開基の霊場』とあった。南側の境内墓地内には鑑真(がんじん)の弟子が遺徳を偲び建立したという供養碑が立っている。龍興寺は「下野薬師寺」の別院で、天平宝字5年(761)、鑑真が開基したとされている。
龍興寺山門、聖霊殿
「お水取り」 が行われる井戸。立派すぎて井戸とは思えません。
鑑眞は中国揚州に生まれ、僧侶が遵守すべき戒律を研究する宗派である律宗(りっしゅう)と天台宗を学んだ。天平14年(742)日本から来た遣唐使に懇願されて渡日することを決意する。しかし、渡海を嫌った弟子の密告や、激しい暴風に阻まれ続け、渡日は5回も失敗に終わった。その間に疲労や気候変化により病に倒れ両目を失明してしまう。それでも信念を貫き、天平勝宝5年(753)遂に屋久島に到着して鑑真の渡日が叶った。その後、薩摩、太宰府を経て、天平勝宝6年(754)漸く奈良の平城京への到着を果たした。
同年、孝謙天皇(こうけんてんのう)の勅(みことのり)により「東大寺」大仏殿に「戒壇」が設立され、その後大宰府「観世音寺」および「下野国薬師寺」にも戒壇が設置されて「戒律制度」が整備されていった。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、これらの知識も日本に伝えた。また、「悲田院」を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。天平宝字7年(763)唐招提寺で死去。
龍興寺は美しく整った寺院だ。境内には「道鏡の墓」と伝わる円墳や、自治医科大学附属病院の納骨堂「聖霊殿」がある。
「道鏡塚」 円墳に葬られました。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、飛鳥時代の文武四年(700)に大阪で生まれた。梵語、禅を学び、宮中に入ることを許され、称徳(しょうとく)天皇の寵愛を受けるようになる。仏教の理念に基づいた政策を推進したが、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。神護景雲4年(770)に後ろ盾の称徳天皇が崩御すると、東国に左遷され、下野薬師寺で没した。女性天皇に寵愛されたことから、天皇と姦通していたとする噂が平安時代以降に広まり、中世以降、平将門、足利尊氏とともに「日本三悪人」と称されることがあるが、否定する説もある。
美しい 雷電神社
龍興寺から400m程北に行くと、何とも素敵な雰囲気の「雷電神社」「薬師寺八幡宮」がある。天狗伝説を持つ雷電神社は、鎮守八幡宮に合祀されていた神社を昭和44年(1969)に神徒らが再建したもので、比較的新しいが良い雰囲気を醸し出している。
雷電神社の西隣に大鳥居があり、薬師寺八幡宮の本殿までの参道には春日灯籠が立ち並んでいる。県道から続く長い参道は、かつて流鏑馬(やぶさめ)が行われていて「流鏑馬参道」と呼ばれている。春には並木の桜が咲き誇るらしい。薬師寺八幡宮は、下野薬師寺の鎮守社として奈良時代天平勝宝元年(749)に創建された古社だが戦国時代に焼失し一時荒廃したが、寛文2年(1662)には本殿が再建され、翌年には拝殿・玉垣が修理された。現在の社殿はその時のものであり、近年にも大改修が行われ、平成14年(2002)に再建時の姿を取り戻した。荘厳な雰囲気の美しい神社だ。
大鳥居から長い参道が続きます。
紅い春日灯籠が整然と並んでいます。
薬師寺八幡宮
北西方向に目をやると、広大な敷地に五重塔の基壇(9世紀後半に再建された方)と幢竿(どうかん)跡の紅い幟台が見える。ここはもうすでに薬師寺の境内だった。西側に建つ江戸時代に再建された下野薬師寺(安国寺)に向かう。
「下野薬師寺」は『続日本後紀』の嘉祥元年(848)条に「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」との記載がある。つまり下野薬師寺が建立されたのは、天武天皇から持統天皇の御代と考えられていて、飛鳥時代に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされている。
その人物とは、「日本書紀」にも登場する、大宝律令(たいほうりつりよう)制定の中心人物であった下野朝臣(あそん)、古麻呂(こまろ)だ。古麻呂は、大宝二年(702)天皇の補佐官である参議に就任し、軍事関連を司る兵部省長官(後に大将軍を兼務)、文武天皇陵墓の造営責任者である造山陵司(ぞうみさぎのつかさ)、文官の人事を司る式部省長官などを歴任した。東国からこれだけ中央政治に進出した地方豪族の例はなく、傑出した有能な人物であったことがうかがえる
再建された幢竿。実際はこの3倍の大きさだったらしい。
五重塔の基壇(9世紀後半に再建された方)。規模は奈良の法隆寺と同等でした。
江戸時代になり、旧薬師寺伽藍内に安国寺、龍興寺が再建され、双方が薬師寺の正統性を争う訴訟を起こしたが、天保9年(1838)『安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する。』という合意に達した。近年の発掘調査の結果、焼失前の寺域は東西約250m、南北約330mで、当時東国最大規模の伽藍を持つ寺院であったことが明らかになった。なお、平成の大修理を機に、寺名を安国寺から下野薬師寺に戻している。
薬師寺本堂。撫で薬師様がお出迎え。
戒壇院跡に建つ、江戸期に建てられた六角堂。
回廊の北西角が復元されました。
笑顔の撫(なで)薬師如来様が出迎えてくれた本堂の北西に、回廊の一部が復元されているので、摩尼車(まにくるま)を回してから玉砂利の上をザクザク歩いて向かう。奈良唐招提寺の「鑑眞霊廟の土」と「薬師如来基壇の土」が納められている「鑑眞大和上宝塔」に手を合わせてから、戒壇院のあった西金堂跡に建てられた「六角堂」を拝観。現存する六角形の建物は江戸時代後期の様式を示しており、境内に残る唯一の近世の遺構だそうだ。当時の工法に倣って復元された回廊の一部は、朱塗りの美しい建物で、これが100m四方を囲んでいたことを想像すると圧巻だ。
下野薬師寺歴史館の内部です。
史跡の西に建つ「下野薬師寺歴史館」に向かう。模型や発掘調査で見つかった瓦などの出土品が展示されていて、ビデオ映像での解説も興味深く観ることができた。また、屋上の展望デッキから薬師寺跡が一望できる。晴れていたら遠く日光連山の山並みを観ることができるらしい・・残念。
後身寺院「国分寺」
来た道を駅まで戻ってから西に進み、小金井街道44号で姿川を越えてから1km程行くと右手に、下野国国分寺が衰退した後に造られた後身寺院である真言宗瑠璃光山「国分寺」がある。本堂は新しいが隣に建つ「薬師堂」は趣がある。お参りしてから進路を南に変えて700m程行って右折すると「天平の丘公園」内に入る。公園花広場の700m周囲に「下野国分寺」「下野国分尼寺」「しもつけ風土記の丘資料館」「栃木県埋蔵文化財センター」などが密集して存在する。
広大な国分寺跡。
国分尼寺跡。こちらも広い。
「下野国分寺」は、奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇の詔(みことのり)によって全国60数か所に建てられた寺院のひとつで、ここの遺構の状況は全国的にみても極めて良好に残っているそうだ。私は上野国分寺跡、下総国分寺跡、上総国分寺跡、常陸国分寺跡、武蔵国分寺跡にも行ったが、原っぱや畑の中に石碑が建っている程度の史跡もあった。しかしここはしっかり整備されて残っている。さらに約600m東にはセットとなる「下野国分尼寺」跡があり、ここもしっかり整備されて残っている。これらを目の当たりにすると、ここが姿川(すがたがわ)、思川(おもいがわ)に挟まれた台地上に位置する下野の中心地だったことが明確に推測できる。発掘調査によると寺院地の規模は、東西413m、南北457m。史跡内にはそれぞれの解説板も多くあり、往事を想像するのが楽しい。東隣にある「しもつけ風土記の丘資料館」に入る。ここも発掘調査で見つかった出土品や、ビデオ映像での解説があって先ほどの「下野薬師寺歴史館」に似ている。
しもつけ風土記の丘資料館の内部です。
道を挟んで南側に建つ「栃木県埋蔵文化財センター」は県内の埋蔵文化財の保護及び調査、研究をする施設だが、常設展示室があり収蔵する出土品の一部を展示してくれていて、旧石器時代から平安時代の歴史の解説も整理されていてわかりやすい。
栃木県埋蔵文化財センターの内部です。
南に1.3km行くと右手にいかにも古墳らしい丘(琵琶塚古墳)が現れ、左手に「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」がある。平成30年(2018)に開館した新しい資料館だ。栃木県内最大級の前方後円墳である摩利支天塚(まりしてんづか)古墳、琵琶塚古墳、そして飯塚古墳群から出土した遺物を展示している。館内に入ると、かわいい埴輪達が出迎えてくれる。
古墳資料館の埴輪。かわいい!
資料館の西側に聳える 琵琶塚古墳
思川・姿川間の台地、南北1.5キロメートル、東西0.4キロメートルの範囲に、6世紀から7世紀にかけての古墳が100基以上分布していて、発掘調査により19基の古墳と、埴輪窯跡が確認されている。これらの大規模古墳は「しもつけ古墳群」と呼ばれている。
資料館から300m南西に行ったところの左手の森の中に摩利支天塚古墳があり、頂上にお社が建っている。その先の小山壬生線18号沿いに「台林寺」がある。慶応四年(1868)の戌辰戦争で、この寺の住職が日光山内に逃れていた幕軍を説得して会津方面へ落ち延びさせ、それにより日光東照宮は戦火から救われたといわれている。山門脇に立派なしだれ桜があった。
天平の丘公園内の「紫の五輪塔」などを見てから国分寺跡まで戻り、小山壬生線を1km北上してから左折して小金井街道で思川を渡り、大光寺町交差点を左折して1km程行ってから右折すると「下野国庁跡」「下野国庁跡資料館」がある。
儀式を行った前殿が復元されています。
下野国庁(国府、国衙)は、約95m四方の板塀、溝で囲まれた内部に、正殿、前殿、左右の脇殿が建てられていて、中央は広場だったようだ。正殿は、儀式などを行った前殿の北側、現在「宮目(みやのめ)神社」が建っているところにあったと考えられている。平成六年(1994)に前殿の建物が復元されていて往事の様子を伺うことができる。大きさは東西24.9m、南北8.3m、高さ6.3mで、法隆寺、唐招提寺を参考にして、工法、工具も古代に倣って造られた。中央広場は草が膝丈ほどに伸びていて『まむしに注意』の看板があった。
発掘調査によると下野国庁域は、東西540m、南北648m程であったと推定されている。「東山道」は国庁の南側約300m付近を東西方向に通っており、国庁から南へ延びる南大路とつながっていたと考えられている。
隣接する「下野国庁跡資料館」に入る。下野国府の遺跡から出土した土器、木簡などが展示されている。資料館の類は本日5軒目だ。
ひっそりと建つ 下野国庁跡資料館
国府(国衙)の模型。
来た道を大光寺町交差点まで戻り、さらに北へ2.5km程行くと惣社「大神(おおみわ)神社」がある。奈良県の三輪山西麓にある大三輪大神(大神神社)から分霊された大神神社は、国府の北2kmに置かれた下野国の惣社で、国司の奉幣などの祭祀をまとめて行っていた。戦国時代に焼失、荒廃したが、三代徳川家光の寄進により天和二年(1682)に復興し現在に至っている。境内林は「栃木県惣社緑地環境保全地域」となっていて、境内にある池「室の八嶋」は、奈良時代から歌枕として名を知られ、万葉集、古今和歌集などにも登場する。松尾芭蕉もこの地を訪れている。
霊気を感じられる立派な神社だ。厳かな雰囲気が漂っている。茅の輪をくぐって参拝する。宮司さんは常駐していないらしく、留守の時はここから10kmほど離れた「大平山神社」まで行けば御朱印を頂く事が出来るらしい。和歌に詠われた境内の池に行ってみる。各小島には石橋が架けられていて、それぞれに小さなお社が建っている。ゆっくりと深呼吸して英気を吸収してから、宇都宮栃木線2号に出て南西に6km程走って栃木市内に入った。
森の中に建つ 大神神社。
和歌に詠われた 室の八嶋。
茅の輪くぐりは、8の字に3回くぐります。
見所満載の魅力的な「蔵の街、栃木」は数年前に訪れて詳しく散策しているので、今回は「神明宮」にだけお参りしてから栃木駅に向かい自転車をたたんだ。
各地の国府、総社、国分寺、国分尼寺は、だいたいご近所にあるが、ここは川を挟んでいるので巡るのに時間がかかった。また、下野薬師寺という大寺院跡もあり、国分寺級の史跡が二つあったと言える。りっぱな古墳もあった。そして各史跡に資料館があり、5カ所とも立ち寄って見学したので、日帰りで廻れたことに大満足だ。とても充実した楽しい一日だった。 2025.5.25
栃木は歴史ある「蔵と水運の街」です。
