歴史往来
新田義貞公ゆかりの地、太田 と
徳川家発祥の地、世良田
太田市は群馬県南部に位置し、市域中央の東に金山丘陵があり、南部に利根川、北部に渡良瀬川が流れ、市域の大部分は肥沃な平野部が広がっている。
旧石器時代、縄文時代に金山麓付近に集落が造られはじめ、4世紀半ばより周辺に大きな古墳も築造された。平安時代になると新田氏による「新田荘」が作られ、里見氏、山名氏、世良田氏などが派生し、上野の国内で勢力を増していった。鎌倉時代末期の1333年に、新田荘を拠点とする新田義貞が挙兵し、鎌倉に攻め込んで幕府を滅ぼした。その後、足利尊氏とともに新政権の軍事を担うが、やがて南北朝に分かれて長い抗争が始まる。
室町時代を経て戦国時代となると太田は北関東の最重要拠点だったので、上杉謙信や武田信玄、北条氏康の覇権争いの場となり、地域の中央にそびえる金山城では十数回もの激しい攻防戦が繰り広げられ、天正18年(1590)豊臣秀吉の侵攻により金山城は廃城となった。
江戸時代には日光例幣使街道の宿場町として、また文政10年(1827)に、近郷73ヵ村の寄場村として、さらには地方小商業の在郷町として発達するなど、近郷近在の中心地として発展していった。
現在の人口は約22万人で県内では高崎市、前橋市に次いで3番目に多い、SUBARU(富士重工業)などがある北関東工業地域最大の工業都市である。
前日のうちに太田市内まで来てビジネスホテルに宿泊し、朝8:00自転車で出発。東武伊勢崎線太田駅は大きくて綺麗な駅だ。北口には新田義貞(にったよしさだ)公の銅像と、洒落たデザインの美術館、図書館がある。まずは北に進んで金山を目指す。500m程進んで左折すると「高山神社」がある。この神社は高山彦九郎を祀った神社だ。 高山彦九郎は、延享4年(1747)太田市に生まれ、蒲生君平(がもうくんぺい)、林子平(はやししへい)らとともに「寛政の三奇人」と呼ばれた勤皇思想家だ。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛ら幕末の志士たちに大きな影響を与えたとされている。
北側に隣接する「受楽寺」に向かう。上州太田七福神の大黒天を祀っている。山門横の蝋梅が綺麗だった。
太田七福神の一つ、受楽寺
受楽寺の蝋梅
300mほど西に進んで右折し、また300mほど北上すると左手に「大光院」がある。まず目に入ったのは本堂前の大きな松だ。「臥龍松」と呼ばれている通り、龍が這い回っているようなアバンギャルドな形をしている。
大きな寺院だ。正式名称は「義重山新田寺大光院」。徳川氏一族の始祖と言われる新田義重(よししげ)をまつるお寺だ。徳川家康は先祖の地に菩提寺を建立する計画を立て、芝「増上寺」の観智(かんち)国師に諮問したところ、国師の門弟呑龍(どんりゆう)上人が選任され、慶長18年(1613)開山に至った。(ちなみに、中島飛行機製100式重爆撃機の呼称は「呑龍」です。)
大光院の臥龍松
北側の林の中に呑龍上人の御廟があるので手を合わせていると、高齢者が何人も背後を通り過ぎていった。金山城ハイキングコースの始点にもなっているようだ。ここには太田七福神の弁財天が祀られている。
東叡山寛永寺の石灯籠(最樹院=徳川治済(はるさだ)~第11代将軍徳川家斉(いえなり)の父)2基発見。
北に500m程行くと「金龍寺」がある。寺名は新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」からきている。金山城の重臣であった横瀬氏が文明年間(1469~1486)に創建した一族の菩提寺だ。横瀬氏(由良氏)の五輪塔が9基あり最上段に「新田義貞公供養塔」がある。ここには太田七福神の毘沙門天が祀られている。
新田義貞公供養塔と五輪塔群
さらに北に400m坂道を登る。息が切れる。左手に洒落たデザインの建物が見えてきた。「史跡金山城址ガイダンス施設」は建築家、隈研吾(くまけんご)氏が設計した2020東京オリンピックを思い出させる建物だ。
金山城は文明元年(1469)新田一族の岩松家純(いえずみ)によって築城され、その後由良(ゆら)氏の時代に改築が重ねられた。北関東の要衝で、地理的にも上杉、武田、北条に囲まれていたので、有力戦国大名の攻撃を十数回も受けたが一度も落城することなく持ちこたえた。しかし豊臣秀吉の侵攻により天正18年(1590)廃城となった。頂上まで行ってみたかったが、ここであまり時間はかけられないので先を急ぐ。
1.2km程走って左折すると「玉巌寺」がある。世良田の「長楽寺」を開山した栄朝(えいちよう)禅師の弟子が開山。一時衰退したが金山城主横瀬貞国(よこぜさだくに)の助力を仰ぎ再建された寺院で、太田七福神の福禄寿を祀っている。
玉巌寺山門
北に500m行くと「永福寺」がある。山門を入ってすぐ右側に古めかしい石塔があった。太田市指定重要文化財の「名号角塔婆」だ。名号角塔婆とは浄土宗の信仰者によって造立された角柱形の石の供養塔で、板碑は関東を中心に多くあるが角塔婆は太田市北東部から桐生市南部・大間々町東部にかけて35基確認されているのみだそうだ。造られた時期は鎌倉時代後期から室町時代初期と推測されている。ここには太田七福神の寿老人が祀られている。
永福寺
東に進み太田桐生線を越えると「曹源寺」さざえ堂がある。新田義重が姫の菩提を弔うために建てた六角堂が起源とされ、本堂となっている「さざえ堂」は寛政5年(1793)頃に建てられた国の重要文化財だ。外見は2階建てに見えるが、内は3階建てで堂内は回廊式になっていて、同じところを2度通らずに元のところに戻れる構造になっていることから「さざえ堂」と呼ばれている。本尊は魚藍(ぎよらん)観世音菩薩。そして秩父、阪東、西国の礼所にちなんだ百体の観音像が奉安されているが、残念なことに当日は堂内を拝観できなかった。大いに悔やまれる。曹源寺さざえ堂は、本庄市成身院百体観音堂、会津若松市旧正宗寺三匝堂(さんぞうどう)と合わせて「日本三さざえ堂」と呼ばれている。ここにも名号角塔婆があった。太田七福神の布袋尊が祀られている。
曹源寺さざえ堂
県道316太田桐生線に出てひたすら南下して3km程走ると、太田熊谷線と交差する熊野町交差点に出る。ここが旧中島飛行機製作所、現SUBARU群馬製作所の北西角「スバル町1 」だ。写真を撮ってから工場敷地の西縁の道を765m南下して南西角に出て左折、正門に向かう。大きくて立派な工場だ。当然中には入ることは出来ない。
正門から東に300m程行くと南門がある。この正面から南東に向かう「公園通り」はかつての飛行場、現SUBARU群馬製作所大泉工場に向かう飛行機運搬路だ。その先、ラフィエット通りを行くと東武小泉線西小泉駅付近で「カメの道」に接続する。中島飛行機製作所は当時では考えられないほど大規模な工場だったことが推測できた。
門標は「富士重工業 群馬製作所」のままでした。
太田駅北側の県道2号前橋館林線を西に進み世良田を目指す。八瀬川を越える橋の袂に地蔵堂と公衆トイレがあり、「日光例幣使道」の立派な石碑も建っていた。朝廷からの日光例幣使(れいへいし)の派遣は正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで続いた。例幣使は京都から中山道を東進してきて倉賀野宿(高崎市)で中山道から分かれ、13の宿場町を経て下野国金崎宿に至った。この間の距離は約90kmほどだ。金崎宿の次の楡木宿(鹿沼市)で壬生道に入り、今市で日光道に合流した。
道の向かいに「長念寺」がある。山門脇に大きな銀杏の木がある。境内には付属幼稚園の遊具などがあり、ほっこりする。ここには太田市七福神の恵比寿天が祀られている。ここでハタと気づいたのだが、もしかして「上州太田七福神めぐり」をやってしまったのかもしれないと・・。太田に来るまで上州七福神の存在も知らなかったし、七福神巡りを目的に走っていたわけでもないが・・今年は良い年になりそうだ。
長念寺
東武桐生線、県道太田大間々線、蛇川も過ぎて、県道2号をひたすら6kmほど走って県道332号桐生新田木崎線を左折して500m行くと右手にお城のように水堀に囲まれた「反町薬師」がある。敷地は新田義貞の居館跡といわれる場所(数カ所ある)で「反町館跡」とも呼ばれている。現在この地にある「照明寺」は正徳四年(1714)に堀の西側から移転してきた寺院で、厄除け薬師として大勢の参詣者が訪れている。時折、梵鐘の大きな音がするので誰が衝いているのだろうと思って見てみたが無人・・。なんとタイマーによって撞木が飛び出るようになっていた。
反町館跡 照明寺
ここから西に3km程行くと反町館と同様、鎌倉時代から南北朝時代に築造された「江田館跡」(国史跡)がある。新田荘(にったのしょう)を代表する館跡のひとつで、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡だ。また北に2.5km程行くと 新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた「生品(いくしな)神社」(国史跡)があるが、「中島知久平邸」の閉館時間が気になるので今回はこの2カ所はスルーする。
南に進んで、生品神社で挙兵した新田義貞が小休止のために立ち寄って兜を脱いで掛けた「冠着の松」のある「大通寺」をお参りしてから、東武伊勢崎線世良田駅の陸橋を越えて1km行き、世良田交差点を右折すると、西の早川を背にして、三方を堀に囲まれていた「新田館跡」に建てられた「総持寺」がある。ここも新田義貞の居館跡といわれる場所(数カ所ある)だ。
大通寺の冠着の松。盆栽のようです。
東武伊勢崎線 世良田駅
東に500m進むと「太田市歴史公園」があり、「長楽寺」、「世良田東照宮」、「新田荘歴史資料館」などが点在している。長楽寺は新田義重(よししげ)の子、徳川義季(よしすえ)を開基とし、臨済宗の祖、栄西(えいさい)の高弟、栄朝(えいちよう)を開山として承久三年(1221)に創建された東日本最初の禅寺だ。徳川家康が関東入国後、祖先の寺として重視し、天海(てんかい)僧正を長楽寺住職に任じた。
長楽寺 勅使門
長楽寺 三仏堂
天海と言えば僧侶と言うより家康の側近として江戸幕府初期の政策に深く関与した人物として知られている。関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にして江戸の地を選んだとされている。その後も陰陽道や風水に基づいた江戸の都市計画に関わり、江戸の町が完成するまで50年近くも手腕を振るった。三代将軍家光(いえみつ)にも仕え寛永元年(1624年)に寛永寺を創建し、寛永4年(1627年)には寛永寺の隣に「上野東照宮」を建立している。
天海は長楽寺の住職を務めた後、川越の「無量寿寺北院」の再建に着手し、寺号を「喜多院」と改め関東天台宗の本山とした。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を命ぜられ輪王寺本坊、光明院を再興した。
元和二年(1616年)、死期を悟った家康は神号や葬儀に関する遺言を天海に託した。家康の死後、神号を決めるに際して天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、家康の命により「武家諸法度」を起草した金地院崇伝(こんちいんすうでん)は「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。二代将軍、秀忠の諮問に対し天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」とされ、元和3年(1617)家康の霊棺は久能山から日光山に改葬された。
(3月15日、久能山→善徳寺→三島→小田原→中原→府中→仙波→忍→佐野→鹿沼→4月4日、日光)
「日光東照宮」は、徳川家康の遺命により、元和年間(1615~1624)に2代将軍徳川秀忠により創建され、ごく普通の立派な建築物だったものを寛永13年(1636)に3代将軍家光(いえみつ)が現在の豪華絢爛な姿に改築した。その際、天海は日光東照宮の拝殿・唐門・多宝塔を徳川氏ゆかりの地、世良田にある徳川氏始祖、徳川義季開基の長楽寺境内に移築し、荒廃していた長楽寺の復興に役立てた。
世良田に移された旧東照宮社殿は、寛永21年(1644)に遷宮が行われ「世良田東照宮」が創建された。そして徳川幕府は世良田東照宮の神領200石に、別当寺である長楽寺の寺領100石を加えた合計300石の朱印地を与えた。
修復工事中の 世良田東照宮
私が拝観したとき世良田東照宮拝殿は工事中で、内部を見学することはできなかった。残念だ。お隣の「新田荘歴史資料館」に向かう。資料館と言うより立派な地域博物館だ。いろいろと勉強させて頂いた。何故ここが徳川家発祥の地なのか?徳川家というと東海地方と思ってしまう方もたくさんいると思う。資料館の案内カンバン「徳川家発祥の地おじま」から引用要約する。
新田荘歴史資料館
『平安時代末、八幡太郎源義家(よしいえ)は強力な武士団を結成した。義家の子の義国(よしくに)は関東地方に勢力基盤を置き、子の義重(よししげ)が新田荘を開き新田氏の祖となった。義重の子、義季(よしすえ)は徳川(得川)の地を領地とし徳川義季と名乗ったが、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏との南北朝の抗争で敗退した。その後も足利政権の迫害を受けた徳川有親(ありちか)、親氏(ちかうじ)父子は当地を離れ流浪の旅に出た。親氏は仏門に入った後、松平郷(現在の豊田市松平町)の松平信重(のぶしげ)の入り婿となった。以後代々相続し、永禄九年(1566)に家康が松平姓から徳川姓に戻し、戦国大名徳川家康として名を馳せていった。』と・・なるほど。
県道298号平塚亀岡線に出て東に進むと左手に「縁切寺 満徳寺資料館」がある。鎌倉時代、徳川義季が開基となって「満徳寺」を建立し、出家した義季の娘が最初の住職(開山)になり浄念尼(じようねんに)と称した。
縁切り寺 満徳寺の駆け込み門
「駆け込み寺」とも言う縁切り寺とは?、
解説を見ると『頑強に離縁を拒否する夫に対して、最終的に幕府権力を背景に離縁を成立させてくれたのが縁切り寺である。』とある。その幕府権力とは・・。
満徳寺は徳川将軍家の先祖とされる新田氏ゆかりの寺であり、徳川家康の孫娘、千姫(せんひめ)が入寺したことで(実際には大奥の腰元であった俊澄(しゅんちょう)が身代わりで入寺したとの説あり。)さらに寺格が上がり「御所寺」の格式を持ち、幕府から100石の朱印地を与えられた。
千姫の父親は二代将軍徳川秀忠(ひでただ)、母親は浅井長政の娘江姫(ごうひめ)(母は織田信長の妹お市の方。姉は淀君)。千姫は豊臣秀吉と淀君(よどぎみ)の嫡子豊臣秀頼(ひでより)と結婚したが、大坂夏の陣で秀頼は自害。そして秀頼と側室の間に生まれた娘、後の天秀尼(てんしゅうに)がこの期に処刑されそうになった際に、千姫は彼女を自らの養女として必死に助命嘆願を行い、その結果天秀尼は助けられたとされている。その後天秀尼は「縁切り寺」として有名な鎌倉「東慶寺」の住職となった。江戸時代中期以降、幕府から公認された寺法を持つ縁切寺は、時宗の尼寺であったここ「満徳寺」と相州鎌倉の臨済宗尼寺「東慶寺」の二つだけである。
しかし、満徳寺は本山も末寺も持たない独立した寺で、専ら徳川家の庇護に依存していた檀家のいない寺院であったため、明治維新で幕府が崩壊した事によって、明治五年(1872)に廃寺となった。現在は太田市教育委員会が群馬県指定遺跡公園「縁切寺満徳寺遺跡」として管理している。ちなみに鎌倉の東慶寺は、最後の尼僧が逝去した後も男僧の寺として存続している。
満徳寺資料館の隣には復元された本堂があり、境内敷地には庫裡、寺役場などの建物の礎石が綺麗に整備されて残っていて、当時の伽藍を想像することが出来る。掃除、庭の手入れもしっかりされていて気持ちの良いところだ。
満徳寺の復元された本堂と諸堂宇の礎石
再び298号平塚亀岡線を東に120mほど進んで左折し、歩道橋で17号を超えたところに「明王院安養寺」がある。触(ふれ)不動明王、倶利伽羅(くりから)不動明王、御影(みかげ)不動明王の三尊を祀っているお不動様の寺院だ。ここもまた新田義貞館跡とされている。
明王院安養寺
17号を南東に進んで早川を渡る手前で左折して800m程行くと左手に「駒つなぎの松」がある。何代目かの立派な松の脇に石碑と解説板が立っていた。『生品神社で旗揚げした新田義貞が利根川を渡る前に休憩した際に、愛馬をつないだのがこの松と言われる。』
歴史に名を残す人物は、兜を掛けても、馬を繋いでも、石に腰かけても史跡として残るようだ。
駒つなぎの松
県道275号に突き当たったら右折して南に進み、尾島公園で左折して今度は276号を南下すると左手に公孫樹の大木があった。「浄蔵寺の大イチョウ」だ。樹齢400年を数える老木だが樹勢は盛んで乳房状の担根体が数多くたれ下がっている。何よりも幹が見えないほど小枝が鬱蒼と生い茂っていて、ボーボーっといった感じだ。
浄蔵寺の大イチョウ
賀茂神社の彫刻
南東に600m行くと「賀茂神社」がある。小さな神社だが本殿の彫刻に目が止まった。さらに1km程行くと本日最後の目的地「太田市中島知久平邸地域交流センター」だ。重厚な門から一目覗いただけで「これは凄い!」と思った。お屋敷と呼ぶにふさわしい威厳のある建物だ。立地のロケーションも良い。老朽化で耐震工事が間に合わず、内部の見学できるところは玄関と応接間だけだが、奥の座敷は庭から観ることができる。ここには中島知久平の家族が暮らしていて、国会議員だった知久平は東京都三鷹市(現国際基督教大学敷地内)に屋敷があったと職員さんが教えてくれた。
中島知久平邸の玄関
見学が許可されている豪華な応接間
インテリアと調和した暖炉
庭に廻ると和室の内部を見ることができます。
(中島飛行機製作所の事は、走る駅鉄各駅停車「カメの道」の最終項に記載しているので、興味のある方はそちらを参考にして頂けると幸いです。)
ゆっくり見学させて頂いてから北北東に7.5km走って太田駅で自転車をたたんだ。充実した歴史散歩だった。 2025.1.19
