歴史往来

 

            かみつけの里 前橋

 

散策したコース      35.8 km

歴史散歩

                         上野国 前橋                      

 

 前橋は古代より人々が集った場所で、古墳も数多く存在する。また、上野国(かみつけのくに)の国府、国分寺、国分尼寺、総社の置かれた北関東の要衝であるが故に、中世には平将門に侵略されたり、戦国時代には有力大名の勢力争いの舞台となった。江戸期は暴れ川、坂東太郎との戦いがあったが、土地は豊かで、かつ養蚕業によって財を成した豪商も多く、家康曰く「関東の華」と呼ぶにふさわしい地域だ。

 かつて古代関東には毛野(けの)と呼ばれる地域があり政治勢力が存在した。『大宝律令』の制定(701)においても、上毛野は「上毛野国(かみつけのくに)」として令制国の1つに定められ東山道に属した。また、日本書紀によると、上野国は朝鮮半島の百済、新羅などと古い時期から深く関わりを有していたようである。天長3年(826)、上野国と常陸国、上総国は、親王(皇族)が国守に任命される親王任国となった。国衙(こくが)のあった国府は群馬(くるま)郡にあったと推定され、現在の前橋市元総社町一帯には国分寺跡・国分尼寺跡・総社神社がある。東西に走る東山道は上野国総鎮守「総社神社」の東2kmで利根川を渡る。河岸に駅馬の厩(うまや)があったので、厩橋→前橋となったとの説がある。

 天慶年間に関東東部で内乱を起こした平将門は、天慶二年(939)上野国府を落とし、一時上野国を支配するが、藤原秀郷によって討ち取られた。秀郷の子孫は上野各地に進出し、有力な武士団として成長した。天仁元年(1108)、浅間山の噴火により、上野国一帯の農耕地は甚大な被害を受けた。荒廃した耕地は、在地領主の大規模な再開発によって私領となり各地に荘園が成立した。これらの荘園を開発したのは藤原秀郷の系譜を引く一族、足利氏や、新勢力として進出した源義重の流れをくむ新田氏であった。

  治承4年(1180年)に源頼朝が相模国鎌倉に入り武家政権を樹立。上野武士団は御家人として鎌倉に出仕したが、元弘三年(1333)、新田荘生品(いくしな)神社で挙兵した新田義貞は鎌倉を攻め、幕府を滅亡させた。その後、室町幕府の下では関東管領上杉氏が上野国守護にあたった。以後、前橋は戦国時代の渦中に入り、上杉、武田、織田、北条氏の権力争いの舞台となっていく。

 その後、江戸期までの前橋城の変遷は目まぐるしく、かつ複雑なので、後述することとして歴史散策に出発する。

 

上野国総社神社

 

 前日のうちに新前橋まで来てビジネスホテルに宿泊。ホテルには大浴場もあり、すこぶる快適だったが、駅近くにコンビニが1軒もないことに驚いた。1番近いセブンイレブンまで600mもある。駅前ロータリーも大きく、人通りもあって賑やかなのに何故なのか?不思議に思った。

 当日朝は博物館等の開館時間に合わせて8:20に自転車で出発、まずは北西に1.5km程走って「上野国総社神社」に参拝する。大化改新(645)の詔(みことのり)によって律令政治が行われるようになり、それまで地方を治めていた国造(くにのみやつこ)は廃止され、新たに大和朝廷から国司が任命され国府が置かれた。国司の任務に神拝・朔幣(さくへい)というものがある。神拝とは新任の国司が国内の主要な神社に参拝し奉幣を行うものであり、朔幣とは毎月朔日(ついたち)に国内の主要な神社に奉幣を行うものである。平安時代中期から後期にかけて国司は国衙(こくが)(役所)の近くに総社を興し、ここで奉幣が行われた。

 現在の本殿は、元和2年(1616)総社城主秋元泰朝(やすとも)により大修理をされたもので県重要文化財に指定されている。旧社格が「県社」だけあって立派な社殿だ。境内で「蒼海城跡地図」なる看板を見つけた。上野国府を城郭化して造ったものが蒼海(あおみ)城だ。この城を造った長尾景忠は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武士で、関東長尾氏の祖とされている。建武四年(1337)上野守護代(越後守護代も兼務)となり、上杉憲顕(初代関東管領、山内上杉家の始祖)の重臣として各地を転戦。時には上杉氏の名代(みようだい)として足利尊氏(あしかがたかうじ)に従軍。長尾氏発展の基礎を築き、子孫の多くは関東各地の守護代となっている。しかし蒼海城は永禄九年(1566)武田氏の攻撃を受け廃城となり荒廃していった。

Google Mapによる上野国府跡とされるあたりです。

国府跡と推定される付近に建つ元総社御霊神社

 総社神社北西の、国府跡(蒼海城跡)と推定される場所にも行ってみたが、国府を示すものは何も残っていなかった。発掘調査で確証できるものが見つかっていないと、石碑も建てられないとのことだ。しかし、国府の位置は「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」の群馬郡(くるまこおり)の記述には元総社町付近にあったとあり、過去の調査では元総社小学校校庭から建物跡がみつかり、閑泉樋遺跡に幅5m、深さ1.2mの東西に走る溝が見つかり、かつ明神遺跡からは400mにわたる南北方向の溝が見つかっている。それなのに国府跡と推定される「元総社御霊神社」付近は新しく住宅地になるようで、宅地区画整理が進んでいる。このあたりに「国府跡の石碑」を建てても良さそうなものだと思った。

 宮鍋神社、蒼海公園にも歴史を感じる遺構は残っていないので、西毛広域幹線道路127号の北方に行って「上野国分尼寺跡」に向かう。日本各地に造られた国府、国衙、総社、国分寺、国分尼寺は、どこでもほとんどご近所さんだ。

畑の中に建つ国分尼寺跡碑

 国分尼寺跡の石碑は畑の中にポツンと建っていた。写真を撮ってから西に進み、関越高速をくぐって「上野国分寺跡」に向かう。ここには広い敷地に整然と史跡が残っていて、南端には「上野国分寺館」が建っている。館内には当時の七重塔の模型や出土品などが展示されており、係の方が詳しく解説してくれた。ひとしきり説明を聞いてから隣接する「妙見寺」に参拝する。

 

国分寺跡の築地塀

精巧な七重塔の模型

妙見信仰最古参の妙見寺

 妙見寺の創建年代等についてはよくわかっていないが、元号の起因となったという逸話がある。和銅七年(714)に藤原忠明なる方がここで「目が赤く首が白い亀」を見つけ、時の帝(みかど)に献じたところ、たいそう喜ばれ、元号が霊亀に改められたと・・。まぁ、延暦16年(797)に成立した「続日本紀」にも「妙見寺」に関する記載があるそうだから、かなり古い寺院なのは確かだろう。

かみつけの里博物館の内部

八幡塚古墳と埴輪

静かな二子山古墳

 西毛広域幹線道路に出て西に進み、三寺公園、上越新幹線を過ぎると「かみつけの里博物館」があり、北側にはいかにも古墳らしい体の「保渡田八幡塚古墳」が聳えている。西側にも「二子山古墳」があり、「保渡田古墳群」は正に古墳の里といった感じだ。5~6世紀の豪族(博物館は王と呼んでいる。)の墳墓とされていて、近くには王の居館跡とされる「三ツ寺遺跡」がある。王はおそらく渡来人であっただろうと推測されている。

 ここでいう「王(おう)」というのは、「臣(おみ)」や「連(むらじ)」などと同じく、朝廷から与えられる称号である姓の1つである。「王」は、主に外国から来た王族出身者に与えられた姓である。ちなみに、埼玉県南部の飯能、秩父付近に渡来した高句麗の貴族、若光(じゃっこう)には高麗王の称号が与えられている。

 古墳の周辺からは数多くの埴輪や副葬品が見つかっており、当時の生活を知る上で貴重な遺跡である。良好な状態で残っていた理由の一つに榛名山の噴火が挙げられる。ポンペイのように火山灰が遺跡をラップしてくれたようだ。

 柏木沢大八木線123に出て北に進み、「群馬県立日本絹の里」に向かう。展示館までは4km程だが、ずっと緩い上りが続くので息が切れる。到着した施設は、ミュージアムショップ、休憩室のある立派な建物で、繭や絹に関する資料や絹製品などが展示されていて日本の絹文化を勉強できる。

絹製品で作られた華やかな衣装

 正徳年間頃より(1711~)上州は全国的に有力な養蚕地帯に成長し、県内各地で市が盛んに開かれるようになった。上州の絹・生糸は中山道や下仁田街道などの陸路や利根川の船運により各地へ運ばれた。安政六年(1859)の横浜開港後に、生糸は外貨を稼ぐ最も有力な輸出品となり、古くから養蚕地帯であった上州にあっては、日本有数の輸出品の供給地として、日本はもとより世界からも注目された。ヨーロッパでは、良質な生糸のことを「マエバシ」と呼んだといわれている。そして上州生糸を横浜に運んだことにより、多くの上州商人たちは横浜経済を支配するほど隆盛を極めた。

 その背景には養蚕家の弛まぬ努力があった。明治2年(1869)、永井紺周郎が「いぶし飼い」を考案し、明治5年には田島弥平が「清涼育」を発表した。さらに明治16年頃、これらの飼育法の長所を取り入れた「清温育」を高山長五郎が完成させた。養蚕を営む農家ではこうした飼育法を取り入れ、蚕の飼育環境に適した構造の蚕室兼用の住宅が建てられるようになり、日本各地に波及していった。

  生糸製糸場というと、ユネスコ世界文化遺産となった「富岡製糸場」が有名だが、その設立より2年前の明治三年(1870)に、日本最初の洋式機械製糸所「岩神町藩営製糸所」が前橋市に設立されている。

山王廃寺跡

 前橋箕郷線6号を東に4km程進み関越高速、八幡川を越えたら右折して川沿いに500mほど南下して右折すると「山王廃寺跡」がある。現在は山王日枝神社の一角に遺構が残るだけだが、かつては80m四方を回廊で囲まれた大寺院であった。寺の建造者は新羅(しらぎ)遠征などで功績を挙げた上毛野君(かみつけぬのきみ)であったと考えられている。

  上毛地域最古の、関東地方でも最初期の古代寺院跡で、昭和56年の発掘調査で、この寺院が、「上野三碑」の一つ、681年に建てられた国特別史跡「山上碑(やまのうえひ)」に書かれた「放光寺」であることが判明した。

 (上野三碑は、飛鳥時代から奈良時代に建てられた漢文が刻まれた三基の石碑、山上碑・多胡碑・金井沢碑の総称。日本に18例しか現存しない古代の石碑の中でも最古の石碑群で、いずれも国の特別史跡に指定されており、2017年には「ユネスコ世界の記憶」に登録された。Wikipedia)

総社歴史資料館に展示された山王廃寺の出土品

 山王廃寺跡からは、塔の心礎(しんそ)や心柱根巻石(ねまきいし)、石鴟尾(しび)など、当時の地方の石工には造ることが出来ないような精緻な石造品が出土しているため、大和王権と密接な関係にあった古代豪族、上毛野(かみつけぬ)氏の氏寺と考えられた。権力者の墳墓はこの時期から次第に古墳から寺院へと移っていく。平成の調査で寺域の西方から大量の瓦や塑像が埋まった土坑が検出された。土坑からは塑像(そぞう)片2000点以上を含む3000点以上の破片が出土したが、塑像には焼けた跡があることから、塔が火災に遭ったため、瓦や初層にあった塑像の残骸がまとめられて穴へ廃棄されたものと推測されている。伽藍跡の礎石や出土品の多くは国指定の重要文化財、重要美術品に登録されている。

 山王廃寺跡の周辺には総社古墳群や上野国の国府・国分寺・国分尼寺があり、7世紀の総社町地域は、大和朝廷を支えた東の大国であった上野国の中心地であった事を、あらためてうかがい知ることができる。

朱色に塗られた光巌寺楼門

 総社町にある「総社歴史資料館」に向かう。前橋箕郷線6号から左折して前橋伊香保線15号に入って200m程のところに「光巌寺(こうがんじ)」入り口がある。遠くからでも紅い立派な山門が目に入る。資料館は公民館駐車場を入った奥にある。地味な建物だが総社古墳群、総社城、天狗岩用水のことなどがわかりやすく展示されている。

名君を称えた力田遺愛碑。屋根付きです。

この付近にあった総社城の城主で、総社藩主の秋元氏に関して以下に簡潔に述べる。

 総社藩は、徳川家康の関東入国後に成立した藩(1601)で、入封した秋元長朝(ながとも)は新たに総社城とその城下町を築くことに着手した。長朝は水利に乏しく荒廃していた総社領のために用水を引くことを計画し、領民に3年間の年貢免除を約束し、領民は総出で用水工事に取り掛かった。この「天狗岩用水」の完成は慶長9年(1604)である。農地開発を可能にしたこの用水は他にも、総社城の外濠として用いられ、また総社宿内の街道の中央に引かれて防火や馬の給水にも用いられた。長朝は慶長十五年(1610)、荒廃した蒼海城から新たな総社城に移った。

 総社領において秋元長朝は、「荒廃した領地に用水を引いて肥沃な農地に変え、領民の暮らしを豊かにした名君」として称えられている。安永5年(1776)、総社領の百姓衆は長朝の徳を讃え、菩提寺である光巌寺の境内霊廟前に「力田遺愛碑(りょくでんいあいひ)」を建立している。碑文の末尾には「百姓等建」と記されている。学識者によると「封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしい」と評されている。

 元和8年(1622)に徳川秀忠のもとでも御小姓組番頭を務めていた嫡男の秋元泰朝(やすとも)が家督を継いだが、寛永10年(1633)甲斐郡内の城代を命じられ、3000石を加増の上で領地を甲斐国都留郡に移された。栄転であったが、これにより甲斐谷村藩1万8000石が成立し、総社藩は廃藩となった。

総社城鳥瞰図

宝塔山古墳。頂に秋元氏歴代墓地があります。

 秋元家は領主として総社を去ったのちも総社町の光巌寺に歴代の墓を設けており、旧領主秋元家と総社の縁は長く続いた。慶長12年(1607)、総社藩主秋元長朝が母の菩提を弔うため、元総社の徳蔵寺を移し創建した寺が光巌寺。父の景朝の菩提を弔うために創建したのが元景寺(げんけいじ)である。

 ということで隣接する「光巌寺」をお参りする。立派な寺院だ。「秋元氏歴代墓地」は隣接する「宝塔山古墳」の頂にある。資料館の隣の「蛇穴山古墳」の南には「天狗岩用水」が流れている。北側には「愛宕山古墳」「総社二子山古墳」があり「総社古墳群」を形成している。この辺りには歴史を感じさせる遺跡がたくさんある。

総社歴史資料館から見た蛇穴山古墳

 ちなみに二子山古墳からは副葬品として優美な太刀が出土しているので、実在した可能性のある最初の天皇、崇神天皇(すじんてんのう)が東国統治にあたらせた皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)(上、下毛野君の始祖とされている)の墳墓ではないかとの説があったが、調査により古墳は6世紀末の築造とわかり、誤りと判断された。

水道資料館、旧配水塔

 北に進んで「元景寺」をお参りしてから、戻って大渡橋(おおわたりばし)で利根川を渡って左岸に行く。北上してスタジアム、サッカー、ラグビー場を過ぎると配水塔が聳える「水道資料館」が見えてくる。昭和4年に建てられた敷島浄水場の旧管理事務所を改修した施設で、配水塔とともに文化庁から登録文化財の指定を受けている。しかし、残念なことに改修工事中のため現在休館中だった。北側にある「前橋市水道局敷島浄水場」が一般開放日だったので新配水塔に登れるイベントをやっていたが、ペットボトルに給水だけさせて頂いて先を急ぐことにした。

 

巨大な新配水塔

 さらに500m程行くと「敷島公園門倉テクノばら園」があって、一角に「前橋市蚕糸記念館」がある。明治44年(1911)に「国立原蚕種製造所前橋支所本館」として岩神町(現在の昭和街三丁目)に建てられたもので、様々な研究成果をあげ、日本の蚕糸業の振興に大きな貢献を果たしてきた。明治時代に建てられた優雅な洋風木造建築は、昭和56年(1981)この場所に移築され、県指定重要文化財に指定された。一般公開されていて、内部には養蚕・製糸に関する資料や用具、器械等が展示されている。

美しい蚕糸記念館

展示品は絹の里より充実していました。

 来た道を戻って道なりに2km程行くと前橋箕郷線6号との交差点に巨大な岩が現れた。「岩神稲荷神社」の「飛び石」だ。この飛石は、約2万4千年前頃の浅間山の噴火によって発生した前橋泥流が、吾妻川沿いに当地まで流れ下ってきた際に押し出された岩石で、岩の成分が浅間山を給源とするものであると判明した。大きさは、周囲が約60m、高さは地表に露出した部分だけで9.47m、地下に埋もれた部分が約10mもある一塊の大きな岩で、「岩神の飛石」として国指定天然記念物に指定されている。とにかくビックリする大きさだ。

 

天然記念物の飛石とお社

 さらに進むと川沿いの道になって「前橋公園」に至り、大きな古めかしい建物が現れる。国指定重要文化財の「臨江閣(りんこうかく)」だ。明治17年(1884)に迎賓館として建てられた本館、茶室、日本庭園と、明治43年(1910)に貴賓館として建てられた別館からなる壮大な近代和風木造建築だ。このような素晴らしい建築物が無料で自由に見学できて、しかも貸館利用までできるというのだから、前橋市の太っ腹に感服した。 

 

臨江閣本館

臨江閣別館

2階大広間は180畳!

 公園北に道を挟んで隣接する「前橋東照宮」がある。建物は令和三年(2121)に新設された社殿に覆われているので、遠くから見ると神社のようには見えないが、内部には川越で造営された立派な本殿がある。

 家康を祀る東照宮は各地にあるが、ここの東照宮は寛永元年(1624)に結城松平家の祖、松平直基(なおもと)によって越前勝山に創建された東照宮だ。結城松平家は120年で10回もの移封を命じられているが、その都度、転封先の城内に社を奉遷してきた。寛延2年(1749)姫路よりここ前橋に移封してきたが、利根川の水害により前橋城を廃棄し、明和4年(1767)川越城へ移転した。現在の社殿はこの時期に川越で造営されたものだ。慶応3年(1867)に前橋藩が再興し、本殿も前橋に移築され明治4年(1871)に再建された。

ガラス張りの鞘堂の中に本殿があります。

平らな屋根の東照宮

 前橋東照宮から400m程南下すると瀟洒な群馬県庁「昭和庁舎」がある。隣の33階建ての群馬県庁舎との対比がおもしろい。ここは上州の中心地であった「前橋城」があったところだ。少し長くなるが複雑な変遷を辿ってみる。

群馬県庁。手前が昭和庁舎

 前橋の中核を成していた前橋城は、上野長野氏、長野賢忠(なかのけんちゅう)が築いた「新石倉城」が最初の厩橋(うまやばし)城(前橋城)とされている。(現在前橋城跡対岸にある石倉城跡とは別の城である。)長野賢忠は箕輪城主長野氏の支族で,周辺の大胡氏・引田氏らを率いて厩橋衆を形成していた。しかし賢忠は,1560年以降関東に侵攻した上杉謙信に誅殺され,厩橋城には上杉氏によって越後の北条高広(きたじょうたかひろ)が配された。

 しかし7年後の1567年、寝返った北条と武田連合軍は厩橋の上杉謙信を攻撃した。その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。1578年 御館の乱(謙信死後の家督争い)が起こると、北条氏は越後の本拠地を失い、武田勝頼(たけだかつより)率いる武田軍に降伏したが、引き続き厩橋城代として残った。1582年武田勝頼を滅ぼした織田信長は滝川一益(たきかわかずます)を厩橋城に送り,北条高広ら上野の武士はこれに従った。しかし本能寺の変後,滝川氏は小田原後北条氏に追われ,厩橋城は北条氏照(ほうじょううじてる)の重要な拠点となった。天正18年(1590)豊臣秀吉の攻撃により小田原後北条氏は滅亡し,前橋城は豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、目まぐるしい覇権争いの末、関東を任された徳川家康の支配するところとなり江戸時代に移っていく。

 慶長六年(1601)前橋城に酒井重忠(しげただ)が入封。重忠は雅楽頭(うたのかみ)酒井家6代当主で、初代川越藩主でもあった。ちなみに従弟の酒井忠勝が川越藩二代藩主で、徳川家光は忠勝を特に信任し、『我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)』と述べたという。

 酒井家の家系は複雑で、酒井忠勝という人物は同世代に二人いる。一人は上述の酒井忠勝(1587~1662)、雅楽頭酒井家(播磨姫路藩、上野伊勢崎藩酒井家)。もう一人は、左衛門尉(さえもんのじよう)酒井家(出羽庄内藩、松山藩酒井家)の酒井忠勝(1594~1647)で、徳川四天王の筆頭、酒井忠次(三河吉田城主)の孫だ。  

 雅楽頭酒井家5代当主正親(まさちか)の三男・忠利(ただとし)の系統が、若狭小浜藩、若狭敦賀藩、安房勝山藩酒井家である。

 江戸幕府の老中、大老を務めた酒井忠世(ただよ)が元和3年(1617)に厩橋藩3万3千石の二代藩主となる。そして寛永14年(1637)忠世の孫、酒井忠清(ただきよ)が厩橋藩四代藩主となった。忠清は承応2年(1653)幕府老中に任ぜられ、松平信綱,阿部忠秋ら前代の遺老をこえて寛文6年(1666)大老に昇りつめた人物だ。そもそも酒井家は、徳川(松平)家に代々仕えた譜代最高の名門で、歴代元老の地位にあった。ことに忠清の時代は門閥の権威が増大し、権力集中強化政策が忠清専権の批判を生み、「下馬将軍」(大手門の下馬札前に屋敷があったことに由来する。)と評されるほど権威を揮った。

 厩橋藩五代藩主忠挙(ただたか)の時代、慶安元年(1648)に地名・藩名・城名を一括して、前橋・前橋藩・前橋城と改めたとされている。

 江戸中期、寛延2年(1749)播磨国姫路藩主松平朝矩(まつだいらとものり)が酒井氏と所領を入れ替える形で前橋藩15万石へ転封され、以後、前橋城は明治維新まで結城松平家の城となった。しかし前橋城は利根川の浸食を受け続け、明和四年(1767)、移転後の御殿にも崩壊の危険が及んだため、前橋藩主松平朝矩は幕府の許可を得て居城・藩庁を前橋から川越に移した。前橋城周辺の前橋領は川越藩の代官支配となり、前橋城は明和6年(1769)に廃城となった。

再築された前橋城

 しかし、天保7年(1836)から天保13年(1842)にかけて、郡代奉行 安井政章(やすいまさあき)らにより「大渡普請」と呼ばれる利根川の改修工事が行われ、利根川の勢いが西方に反れた事で城郭崩壊の危険度が低くなった。この工事にはのべ44万の人足を要したと言われている。

 領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、特産の生糸の輸出により利益を得ていた生糸商人らから献金された7万7千両余りを再築資金として、文久3年(1863)、川越藩主松平直克(なおかつ)は幕府の許可を得て前橋城の再築を開始した。領民からは献金だけでなく労働奉仕も受け前橋城は竣工。慶応3年(1867)直克が入城し前橋藩は再興を果たした。

 再築された前橋城は当時の日本の技術の粋を集めた要塞となり、坪数は旧前橋城とほぼ同等ながらも近代的な造りで、建物は塀で囲まれ、その外側には土塁や堀がはりめぐらされ、土塁の要所要所に砲台が設置された強靭な城だった。ところが明治維新による廃藩置県で、明治四年(1870)前橋城は真っ先に取り壊しが決定し、莫大な費用をかけて作られた前橋城は、城の完成からわずか4年後、再び姿を消した。  もったいない。

 しかし本丸御殿だけは取り壊しを免れ、昭和初期まで前橋県庁として、また府県統合により明治5年(1872)群馬県が成立した後は群馬県庁の庁舎として、老朽化で取り壊される昭和3年(1928)まで使用された。現在はその本丸御殿の跡に建てられた旧庁舎「昭和庁舎」と、隣には平成11年(1999)に竣工した地上33階、地下4階の「群馬県庁」が建っている。二の丸の跡地には「前橋市役所」が、三の丸跡地には「前橋地方裁判所」が置かれ、三の丸外郭の地は、明治38年(1905)に整備され「前橋公園」となった。

 

庁舎北側に残る土塁

 県庁32階展望ホールに上がってみたかったけれど、次回ゆっくりと見学することにして利根橋通りを進んでJR両毛線をくぐり、平和大橋の袂に出る。明治期に造られた煉瓦塀が続くところが「前橋刑務所」だ。全国の刑事施設でレンガ造りの外塀が現存しているのは、ここと網走刑務所の2カ所のみだそうだ。一見の価値がある素晴らしい景観だ。美しい煉瓦塀を眺めながら200mほど東に行ってから左折して600mほど北上すると前橋藩主酒井氏の歴代墓地のある「龍海院」がある。

 

前橋刑務所の美しい煉瓦塀

  酒井氏は、慶長6年(1601)前橋に入封し、寛延2年(1749)九代 酒井忠恭(ただずみ)の時に姫路へ転封となったが、墓所は当地に留まったのでここに歴代墓所がある。広さ3,800㎡の敷地に、奥に初代~8代まで、手前に姫路に転封した9代から15代までの墓石が並んでいる。大名の墓所というものはどこも立派で厳かだ。余談だが私の自宅近くにある「平林寺」には川越藩主松平伊豆守信綱の墓地があるが、広大な敷地に厳かな雰囲気が漂っている。

 

龍海院山門

整然と立ち並ぶ藩主酒井家の墓所

 夕暮れ近くとなったので1km東に進んでJR前橋駅で自転車をたたんだ。とても充実した楽しい一日だった。                                                           2025.4.20