東国三社巡り

              東国三社巡り                   

 

 鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の「東国三社巡り」を思い立ち、まずは千葉県の佐原に向かった。天気も良くてまさに「お出かけ日和」だ。7:50自宅を出て保谷駅で折りたたみ自転車をたたんでから西武池袋線に乗り、日暮里でJR常磐線に乗り換えて、我孫子駅でJR成田線に乗り換えて、佐原を過ぎて11:24小見川駅で降りる。3時間半もかかった。

 小見川駅は初めて降り立った駅だ。良い雰囲気で素敵な駅だ。昭和6年(1931)開業。相対式ホーム2面2線、木造駅舎、跨線橋、明るい待合室、清潔なトイレ、駅前ロータリー、タクシー、バス停、券売機、すべて完璧だ。しかもオシャレな服装の若者が数人、三々五々集まってきて上り線ホームで話をしている。駅が町で生き生きとしている。私のような駅鉄は、こういった駅は優等生と評価する。JR成田線を巡ってみたくなった。

 

良い雰囲気の小見川駅舎

 江戸期にはこの地域は東方の守りの要として、佐倉藩、小見川藩に土井利勝、安藤重信といった徳川の重鎮が置かれた。その後、小見川藩は藩主が入れ替わり一旦廃藩となるも当地を所領としていた下野鹿沼藩内田家が、享保9年(1724)に居所を小見川に移し1万石で再立藩し、以後10代、約150年間この地を治め廃藩置県を迎えた。維新後、子爵、藩知事となった10代藩主内田正学(まさのり)が最後の藩主だ。城跡は「小見川城山公園」となっている。

 史跡巡りは次回に回して、まずは「息栖神社」を目指して出発。利根川を越えるために小見川大橋に向かう。800m程行った所にある内浜公園に「佐藤尚中先生誕生地」と表記された大きな石碑が建っていた。佐藤尚中(たかなか)は佐倉順天堂の外科医で日本の近代医学に多大な貢献をした人物だ。(後日GoogleMapで駅前に銅像が建っていることを知った。)

 公園内の秀逸な解説板によると『この内浜公園は、小見川藩主内田候の侍医であった山口甫僊(ほせん)の邸宅跡です。・・云々』以後要約。『甫僊の次男、山口舜(しゆん)海(かい)(幼名竜太郎)は文政十年(1827)にこの地に生まれた。16歳の時に佐藤泰(たい)然(ぜん)に入門し、佐倉藩に招かれて「順天堂」の外科医として活躍する。26歳の時に泰然の養子となり、名前も佐藤尚中と改めた。万延元年(1860)長崎に留学してオランダ医師ポンペに師事。ポンぺが『日本滞在見聞記』に彼の名を記すほど優れた外科医となった。明治二年(1869)明治政府に招かれて大学東校(東京大学医学部)で活躍し、明治六年(1873)東京の下谷に順天堂医院(順天堂大学)を開いた。明治15年(1882)死去。享年56歳。』下調べもなく偶然に史跡に出会えたことに感謝した。

 

佐藤尚中生誕の地

 利根川は大きな川だ。ここまで下ると海のようだ。昭和48年に開通した小見川大橋は橋長822m、千葉県小見川地域と茨城県鹿島地域を結ぶ幹線道路になっている。中洲を経て今度は常陸利根川に架かる橋長375mの息栖大橋を渡る。小見川大橋と合わせると対岸の神栖までは全長約1.5kmもある。成田小見川鹿島港線44号と神栖外環道の交差点手前を左折して1km程行くと最初の目的地である「息栖神社」がある。

利根川に架かる小見川大橋

『息栖神社は鹿島神宮・香取神宮と共に東国三社の一つと称され、神代時代に鹿島・香取の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取両神宮は其々台地に鎮座するものの、久那斗神と天乃鳥船神は海辺の日川(現在の神栖市日川)に姿を留め、やがて応神朝になって神社として祀られた。大同二年(807)、平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座した。(息栖神社HP)』神々は海路でここに来たようだ。

 江戸期、享保8年(1723)に建てられた華麗な社殿は昭和35年に焼失、現在の社殿は昭和38年(1963)に再建されたものだ。

 

息栖神社神門

 主神の久那斗神(くなどのかみ)は厄除招福・交通守護の神であり、井戸の神でもある。常陸利根川沿いの一の鳥居の脇にある一対の井戸「忍潮井(おしおい)」は、伊勢の明星井、山城の直井とあわせて日本三所の霊水と言われている。また、鹿島と香取に祭られる二神が武神であるのに対して、息栖神社には武神の乗り物であった天乃鳥船神(アメノトリフネノカミ)という水上交通守護の神が祭られている。

新しくなった社殿

(これから鹿島神宮、香取神宮に向かう前に、東国三社について少し勉強しましょう。)

 平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、『延喜式神名帳』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけとのこと。そして極めて異例なことに、鹿島・香取両神宮には毎年朝廷から勅使の派遣があったのだ。それは両神宮は大和朝廷による東国支配の最重要拠点とされ、かつ蝦夷進出の輸送基地として機能していたからと思われる。両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られている。また、江戸時代には「東国三社巡り」は「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」と呼ばれるほど篤い信仰を集めた。

 鹿島神宮は常陸国の一宮で、旧社格は官幣大社。祭神は武甕槌神(タケミカズチノカミ)。香取神宮は下総国の一宮で、旧社格は官幣大社。祭神は経津主神(フツヌシノカミ)別名(伊波比主命イハヒヌシノミコト)。

 神話における一大イベント「国譲り」の話では『地上を治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト)は、それまで天界からの遣いの神たちを巧みにかわし、国譲りの話をうやむやにしてきたが、業を煮やした天照大神(アマテラスオオミカミ)は、武神として名高い武甕槌神(タケミカズチノカミ)を派遣する。これには致し方なくオオクニヌシも従うのだが、次男の建御名方神(タテミナカタノカミ)が反抗する。しかし、タケミカヅチの力は強く、タテミナカタは信州の諏訪まで追い詰められ、そこの祭神となった。』 東国三社の要である鹿島神宮は、その「諏訪大社」の真東にあって、いまだに諏訪大社を牽制しているのだそうだ。

鹿島神宮の大鳥居

 息栖神社裏手の道を北上する。成田小見川鹿島港線44号と合流し、やたらと広い鹿島バイパス124号とも合流してひた走り、茨城鹿島線18号を左折すると「鹿島神宮」だ。息栖神社から10km走った。鹿島神宮入り口交差点から参道を進むと「大鳥居」が見えてくる。東日本大震災により倒壊した御影石の鳥居に替わって境内に自生する杉の巨木で造られた鳥居だ。南側の駐輪場に自転車を駐めて楼門に向かう。

朱色が映える巨大な楼門

寛永11年(1634)、水戸徳川初代藩主水戸頼房(みとよりふさ)により奉納された日本三大楼門の一つだ。お参りをすませ「奥宮」に向かい右折して、地震を起こす鯰の頭を抑えていると言われている「要石」にお参りする。水戸の徳川光圀公がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても全貌を確かめることができなかったと伝えられている。(これから参拝する香取神宮にも要石がある。)

 境内は東京ドーム15個分もあるそうだ。禊ぎの行われる「御手洗池」や「鹿園」など見所はたくさんあるが、今回は三社を巡るので来た道を駐輪場まで戻ることにした。

鹿島神宮拝殿

ナマズを抑えている要石

 参道にある料理店で遅めの昼食を摂った。「ナマズ定食」というメニューがあったので頂くことにした。「鯉の洗い」ならぬ「鯰の洗い」と南蛮漬け風に調理したナマズが出てきた。要石に倣ってナマズを抑え込む気持ちで珍味を食した。

 坂を下ってJR鹿島線と、第三セクターの鹿島臨海鉄道大洗鹿島線が乗り入れている「鹿島神宮駅」に行く。島式ホーム1面2線の高架駅。水戸方面の大洗鹿島線の起点駅と、JR鹿島線の終点駅は「鹿島サッカースタジアム駅」だが、鹿島サッカースタジアム駅に旅客列車が営業停車するのは、駅に隣接するサッカースタジアムでサッカーの試合が開催される場合のみで、旅客駅としては臨時駅扱いなので、ここ鹿島神宮駅が実質的な起点、終点駅となっている。

隣駅、鹿島サッカースタジアム(臨)となっています。

鹿島臨海鉄道の8000形

 ちょうど鹿島臨海鉄道の8000形が停まっていたので写真を撮らせてもらった。最近はラッピング車両が多くなった。私の自宅最寄り駅の西武池袋線にもハリーポッターやら西武ライオンズの野球選手が描かれた車輌がたくさん走っている。

 鹿島線は鹿島神宮駅を出発してすぐに北浦橋梁を越える。全長1.236mの長い鉄橋はトラス構造の無いプレートガーター橋なので景色を遮るものがなく、まるで海の上を進んでいるかのような浮遊感を味わえる。長い橋でも河原や中州が見えたり、欄干に視界を遮られたりすると違和感は感じないが、ここは恐怖感すら覚えた。貴重な体験ができた。

 利根川を越えて、成田線と合流した所にある「香取駅」で降りる。以前「香取神宮」をお参りしたときは佐原駅から歩いて、この駅から電車に乗って帰ったのだが、待ち時間が長くて驚いた記憶がある。相対式ホーム2面2線、跨線橋で結ばれている。平成19年に完成した駅舎は造りはシンプルだが派手だ。香取市の中心はお隣の「佐原駅」なので香取駅前には商店もなく閑散としている。

駅舎は香取神宮を意識したのでしょう。インパクト強すぎ?

 静かな道を2km南に行くと香取神宮の参道入り口がある。自転車を駐めて鳥居をくぐって参道を進むと左手に「要石」の道標があったので、まずは「地震封じの霊石」要石をお参りする。鹿島神宮のものとよく似ているが、香取神宮は凸型、鹿島神宮は凹形だ。大ナマズの頭と尻尾を押さえつけているそうだ。

 北に進んで左折して「奥宮」にもお参りしてから立派な「楼門」をくぐって拝殿に向かう・・・素晴らしい。色合いとコントラストが美しい。私は何百という神社に参拝してきたが、香取神宮が一番美しいと思う。見とれてしまう。ちなみに利根川を遡っていくと、埼玉県北部に「妻沼聖天山歓喜院」という絢爛豪華な社殿があるが、香取神宮は何か特別な品格を持っているように思える。

ここから森の中を参道が続きます。

要石。サッカーボールより小さいかなぁ。

神秘的な雰囲気の奥宮

朱色が映える楼門。

威厳のある拝殿です。

なんて美しいのでしょう。

 駐車場まで戻り佐原山田線55号を西に進み2.5km程行くと、古い町並みとなってきて小野川に架かる忠敬橋に出る。この河原沿いが「北総の小江戸」と言われる水郷の街だ。日本遺産に認定されている保存地区で、江戸の雰囲気が漂う土蔵造りの商家や町屋が軒を連ねた町並みを見ることができる。  佐原は古くから利根川水運の拠点のひとつで、江戸との交流が盛んで商業、醸造業、水運業が発展した。また、日本地図の作成で有名な伊能忠敬が商人として活躍していた町であり、彼が17歳から49歳まで暮らしていた川沿いの「伊能忠敬旧宅」は国の史跡に認定されている。

小江戸佐原の町並み

 (伊能忠敬について香取市や千葉県のHPに簡潔な解説があったので要約します。)

『江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人です。忠敬は、延享2年(1745)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業(醸造業)のほか村のため名主や、村方後見として活躍します。その後、家督を譲り隠居して50歳で江戸に出て暦学の大家、高橋至時(よしとき)に師事し、西洋天文学を学び、55歳から71歳まで(寛政12年~文化13年)10回にわたり全国の測量を行い、約4万キロもの距離を歩いて日本地図を完成させたました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいても高く評価され、明治以降国内の基本図として大正時代まで各方面で活用されました。』

 上り列車の発車時間まで、町中をのんびり散策して「佐原駅」からJR成田線に乗った。

                                                                                 2026.5.17

 

老舗店のような駅舎入り口です。