廃線跡を辿る

 

 

      東武 熊谷線(妻沼線)

   仙石河岸線

 

    熊谷駅~西小泉駅

 

                   

     

                          カメの道

 

埼玉県と群馬県の県境を流れる利根川は、この地区を南北にすっぱりと分断していて

 はにぽん  高崎から羽生に至る約50kmの間に利根川を渡って南北をつなぐ鉄道は1本もありません。よって熊谷、深谷、本庄、藤岡などの埼玉県民は、太田、足利、桐生、伊勢崎などの群馬県民と交流を結ぼうとすると、かなり遠回りをしなければなりません。ちなみに本庄駅と伊勢崎駅との直線距離は10km程なので、「はにぽん」が「もじゃろー」に会いに行こうとするとクルマなら15分で行くことができますが、鉄道で行くとなると高崎周りで1時間もかかってしまいます。

 しかし、この鉄道空白地帯にかつて鉄道が通っていました。熊谷駅から利根川右岸の妻沼駅までの10.1kmを結ぶ東武熊谷線(妻沼線)です。熊谷線は、昭和18年(1943)大日本帝国軍部の命令により国鉄熊谷駅より群馬県太田の中島飛行機工場へ、兵員と物資を輸送することを 

 もじゃろ-   目的に建設された路線です。終戦時までに利根川を渡る鉄橋が完成しなかったため目的は未達成で終焉となりましたが、終戦後の昭和58年(1983)まで熊谷駅~妻沼駅間は運行されていました。また、河向こうの太田側も 昭和14年(1939)熊谷線より一足先に開業した仙石河岸線が昭和51年(1976)まで運行されていました。仙石河岸線は当初は利根川の砂利採取が目的の路線でしたが、熊谷線の計画によってその役割が大きく変わりました。

 熊谷線は軍からの建設要請もあって突貫工事で建設され、着工から約1年経った昭和18年(1943)   12月5日に熊谷~妻沼間が完成しました。利根川を渡る鉄橋がまだ完成していなかったので、工員さんたちは妻沼駅から工場までは東武バスで刀水橋(とうすいばし)を渡っていました。兵員、物資の輸送を目的としていたので、地域住民の要望などは取り入れられずに作られた路線ですから開通以来赤字続きの「赤字路線」でした。しかし地域住民に愛されて、終戦後も40年間運行され続けたのです。

 廃線の要因は、やはり利根川を超えられなかった事にあると思われます。建設区間の免許は起点東小泉駅~終点熊谷駅でした。もし終戦前に利根川の鉄橋上を走っていたら・・状況は大きく変わっていたはずです。そして終戦から15年後の昭和36年(1961)に「東武鉄道妻沼・大泉貫通促進期成同盟会」が発足しましたが、東武鉄道、国鉄も建設困難と判断し、橋の貫通は実現しませんでした。残念です。

 また、昭和58年(1983)熊谷線廃線後しばらくして、西小泉から仙石河岸線跡、熊谷線跡を通って熊谷経由で東松山までを結ぶ「埼群軌道新線」の構想が持ち上がりましたが、実現する可能性は今のところ皆無と言っていいようです。非電化の赤字路線、熊谷駅での立地条件、妻沼町人口伸び率予想の低下などが計画廃止の要因ですが、モータリゼーションの影響は当然のこととしても、完成後の経営的な予想も理由の一つだったみたいです。

 群馬県太田地区の住民が鉄道で東京に行く手段は、東武伊勢崎線を使うか、両毛線-高崎線を使うか、どちらかです。もし「埼玉群馬軌道新線」が開通すると、新線で熊谷駅に出て高崎線に乗り換える方が、伊勢崎線よりも便利になってしまいます。そんなわけで自社の不利益になる「熊谷線復活計画」はお蔵入りしたのだろうと考える人もいます。 残念です。

 

 廃線跡を辿る                                                

           東武熊谷線 仙石河岸線 (熊谷駅~西小泉駅)

 

 霜月末なのに平年よりかなり暖かく感じる穏やかな日です。正に小春日和。9:30に練馬の自宅を出て池袋から湘南新宿ラインで熊谷へ向かいます。埼京線、武蔵野線など幾つかの鉄道ルートがありますが、何れも概ね2時間弱で到着します。熊谷駅は今年6月に秩父鉄道の各駅を巡ったときに来ていますので、そのときの写真を転載します。

階段を降りて秩父鉄道の島式ホームに立ちました。

左が羽生方面行き5番線。右が秩父方面行き6番線。

 

羽生方面。この先の少し低くなったホームにSLパレオエキスプレスが停車します。

 

 5番線にSLパレオエキスプレスが入線してきました。熊谷線の蒸気機関車B2型もこんな感じで入線したのでしょう。

 この5番線を昭和58年(1983)まで東武熊谷線が使用していました。その使い方が変わっていました。

 ホームの中程の線路に砂利を盛って5番線を二つに仕切っていたのです。西側を東武鉄道、東側を秩父鉄道が使用していました。当然、発着のみの使用です。太平洋戦争終盤の慌ただしさを感じます。

 SLパレオエキスプレスはここから4kmほど牽かれて引き返し、広瀬川原車両基地の転車台で向きを変えます。牽引する機関車デキ201は、令和2年(2020)に蒸気機関車に準えて黒単色に塗り換えられました。気遣いがしゃれています。

逞しい  デキ201

 熊谷線の転車台は、西に1200m行ったところの上熊谷駅先の高崎線と秩父鉄道秩父本線の分岐部の三角地帯にありました。当初の予定ではこのあたりで(熊谷線と秩父鉄道の分岐部付近)秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して線路を造り、熊谷駅南側に熊谷線のホームを建設する予定でした。しかし、秩父線の線路を超えるための土を盛る工事は微妙な調整のいる難工事だったので、開通を急ぐあまり、秩父鉄道の複線化用地と熊谷駅ホームを借用する形で開通させました。そしてこの仮線は何れは返還することで協定が結ばれました。

 

 11:20自転車を組み立てて線路沿いに「上熊谷駅」まで廃線路跡を探しながら進むと、使われなくなって錆びた線路がはっきり確認できます。

 右手前が秩父鉄道、左がJR高碕線、中央の車止めが熊谷線跡です。

遠景は熊谷駅です。熊谷線は秩父鉄道のホームを間借りしていました。秩父鉄道はここから2線になって熊谷駅の島式ホームに進みます。SLパレオエキスプレスもこの線路を通ります。

 

 昭和8年(1933)開業の秩父鉄道「上熊谷駅」です。東武熊谷線が廃線となったので秩父鉄道の1線使用なのに島式ホームです。小さな無人駅ですが、熊谷線はこの駅でも北側のホームを間借りしていました。現在は島式ホームの北側には転落防止の柵があります。

 

 構内踏切から見た上熊谷駅ホームです。北側にフェンスが張られているのがわかります。

 

 上熊谷駅の熊谷駅側の踏切から見た線路跡です。秩父鉄道とJR高碕線の間を走っていました。踏切から線路が少しだけ残っています。遠景は鎌倉陸橋です。

陸橋の上から線路跡を確認しましょう。

 

 陸橋の上から東側、上熊谷駅を俯瞰しています。左の2線路はJR高碕線です。

真ん中の高崎線の架線柱が立っている根元に熊谷線が走っていました。線路は外されていますが枕木が残されています。

 

 陸橋の上から西側を見ます。秩父鉄道と、JR高碕線が離れていきます。その真ん中に熊谷線の錆びた線路が確認できます。この三角地帯に作業基地と転車台がありました。熊谷線はここから500mほど秩父鉄道と併走します。

画面に写っている小さな踏切に行ってみます。

 

 陸橋の上から見た小さな踏切から分岐点を見ています。右がJR高碕線です。左手前が秩父鉄道。その間の錆びた線路が熊谷線の線路です。

 

 陸橋から500m程行ったところの2つめの踏切です。右手の白いフェンスの向こう側が緑道の東端部です。「カメの道」が始まります。

 

 踏切を渡って公園に入りました。始点となる「百米塚」が立っています。この先100mにも同じような「百米塚」があります。自転車と比べても大きな塚です。

 

 2匹のカメのオブジェがスタートゲートです。

ジョギングしたくなるような、気持ちの良い道が続いています。

 

 子供向けの遊具もある緑道公園です。日曜日でしたが子供たちの姿はありませんでした。

 

 「かめ号」が居ました。側面に1989.3とあります。熊谷線が終了した日は、昭和58年(1983)6月だからこれが建てられた日付かな?窓から中を覗くと、何やら色々なものがあって公園整備の倉庫のようです。

 

 今年は10月になっても暑い日があるくらい残暑が厳しかったけれど、漸く紅葉が始まりました。

 

 始点を出発して650mです。百米塚ではない頑丈そうなコンクリート製の道標がありました。よく見ると線路を模しているようです。

 

 前方に小高い丘が現れました。最初の百米塚から750m程進んだところです。

 

 近づいてみるとかなりの高さがあります。熊谷線はJR高碕線の上を高架橋で越えていました。盛り土されたスロープはかなりの斜度があったため、蒸気機関車で乗り越えるには青息吐息の苦行であったようです。

 必死になって、ゆっくりと超えていく姿は亀に例えられ、「のろま線のカメ号」という愛称が付けられました。

 

 南側の築堤の頂上からJR高碕線が通過するところを見ています。

 

 対面、北側の築堤に植木で文字が作られています。 画面には写っていませんが左手にある踏切を渡って線路の北側に行ってみます。

 

 線路北側の文字の下に来ました。「クマガヤ」と読めます。「カメの丘」としたほうが適切なのでは・・。

 

 振り返って線路の北側から南のカメの丘を見ています。

築堤の盛土は秩父鉄道の大麻生付近の荒川から採取した土砂が使われました。

 

 この南北の築堤は総延長1.5km、高さ最高4.2mもありました。幅は平均13mです。

廃線後、盛土の一部は熊谷バイパス拡幅工事に再利用されました。

 

  北側のカメの丘の頂上にベンチがありました。

ここでのんびりと通過する電車を見るのも一興です。

 

 カメの丘北側の斜面です。木漏れ陽と斜面の長い陰が美しい。

 

 カメの道はまだまだ続きます。

このカメのオブジェは要所要所にあって和やかな気分にさせてくれます。

 

 異常気象が続いて、植物の体内時計も変調を来したのか、サクラが咲いていました。黄葉した銀杏と狂い咲きの桜です。

 

 可愛らしい遊具がありました。この道を蒸気機関車が走っていたのですね。

 

サザンカの花びらが絨毯のように敷き詰められていました。

 

 中山道石原一丁目交差点脇に道しるべの石碑が建っていました。江戸から中山道を歩いてきた旅人は、ここを左折すれば寄居を経由して秩父に至ります。交通の要衝です。

 

 移設された道標が三基ありました。

 

石碑の解説版です。内容を下に記します。

 道標石文の中に渋沢宗助の名前を見つけたので、ちょこっと解説します。

 武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)(群馬県深谷市)の大名主、渋沢家に生まれた宗助は、各地の養蚕技術を学んで養蚕学の技術向上に貢献し、また寺子屋、剣術道場の「練武館」を作って子弟の教育にも尽力しました。明治維新後は横浜に商店を開き、輸出業にも携わった先進的な事業家です。そして、一万円札の渋沢栄一の伯父で、フランス文学者澁澤龍彦の高祖父にあたります。

 渋沢家の近縁には渋沢喜助、尾高淳忠、渋沢平九郎、須永伝蔵など、幕末明治維新時に活躍した名士が大勢います。NHK大河ドラマにも登場した名だたる方々です。各人を調べるとおもしろいですよ。渋沢栄一の生家はここから西に15km程です。深谷駅周辺にも歴史好きには興味深いところがたくさんあります。

 道標のあった石原一丁目交差点を過ぎてのんびりと500m程進んでいくと「モゥ~」と牛の鳴き声が聞こえました。穏やかな小春日和にぴったりの演出です。県立熊谷農業高校の実習棟が右手に現れ、生徒たち数人が牛の世話をしていました。生き物の世話に日曜日はありません。程なく「第2北大通り線」を横切る交差点に出て、ここで「カメの道」は終了。

 ここからは延々と北に向かって真っ直ぐな車道が続きます。

 ルート17号熊谷バイパス、福川を超えて、とにかくひたすら進みます。次の目的地の「妻沼中央公民館」までは7.4kmあります。途中、バイパスを越えたあたりに「大幡駅」があったそうですが遺構はありません。

 

  広大な田畑が広がる壮大な景色ですが、徒歩だと飽き飽きしてしまうほど周辺には何もありません。自転車を持ってきて良かった。右前方11時方向に雄大な赤城山が遠望できます。

 県立妻沼高校を過ぎた先の歩道を走っていると、左手に並行して走る細い道が現れたことに気がつきました。この道がかつての「線路沿いの道」だったと思います。この道は200mほどで新しい建物が建つデイサービスセンターの敷地に至ります。このあたりがかつて「妻沼駅」と車庫があった所ですが、遺構は見つけられませんでした。右手に見える「熊谷市立妻沼展示館」に向かいます。

 

 広大な敷地に公民館、図書館、展示館の三棟があります。展示館は地元出身の女医1号、荻野吟子(おぎのぎんこ)の生家である長屋門を模した瓦葺屋根の和風建築です。

 

 館内の「東武鉄道熊谷線資料常設展示コーナー」です。想像していたより小規模でした。しかし特別展示期間があり、廃線になった5月31日とその前後に廃止当時の資料等を展示公開しています。

 

 特急カメ号が居ました。昭和29年(1954)に蒸気機関車B2型に代わって登場した東急車輌製の気動車、キハ2000形です。熊谷線の専用車両で東武鉄道で唯一の自社発注車です。昭和29年より走り続け、延2600万人を運びました。3台の気動車で残っているのはこの1台だけです。

 

 「展示館の事務員さんに声をかければ内部を見学することができます」と書いてあります。現役の時は通勤、通学に多く利用されていましたが、座席はベンチシートではなく長距離列車のようなボックスシートです。

 

 最下段の「熊谷市立展示館」の「熊谷市」が消されているのはなぜでしょう?上の写真の張り紙には「妻沼町立展示館」の文字があります。ここだけ町立なのかなぁ?

 

 利根川を渡って「仙石河岸線」に向かう前に聖天様にお参りします。展示館から300m程北に進んで左折すると富士塚がある「大我井神社」があります。ここは私のお気に入りの静かな神社です。

のんびり休んでから西に進むと大きな山門が見えてきます。

大我井神社の富士塚

 歓喜院は平安時代の治承3年(1179)に、長井庄(妻沼付近)を本拠とした武将、齋藤実盛(さねもり)が、守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされています。

鎌倉時代には源頼朝(よりとも)も参拝したとされる名刹でしたが、江戸期、寛文10年(1670)に大火で焼失してしまいます。直ちに再建が叫ばれ、享保20年(1735年)から再建工事が始まりました。工事を統率したのは、大工棟梁の林正清(まさきよ)でした。正清は優秀な職人と資金を集めるため各地を回りました。村人たちも積極的に協力しました。再建工事費用のほとんどを負担したのは、幕府や大名、豪商ではなく、妻沼を中心とした庶民たちでした。  そして工事開始から25年後の宝暦10年(1760)、正清の子、林正信(まさのぶ)によって色鮮やかな彫刻で埋めつくされた壮麗な神殿が完成しました。

 現在の「歓喜院聖天堂」は、平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで、8年間かけて修復工事が施され、当時の絢爛豪華な色彩が蘇りました。修復完成翌年の平成24年(2012)には、埼玉県内における建築物として初めて国宝の指定を受けました。その指定理由は『日光東照宮の創建から百年あまり後、その流れを汲み更に進んだ技術で造られた江戸後期装飾建築の代表例であること。権力者の資金によって建てられたものではなく、庶民の浄財によって造られた建築物であること。』などが評価されました。

 歓喜院から北に進んで利根川沿いまで行きます。

 刀水橋(とうすいはし)まで来ました。「刀水」は利根川の異称です。北西に雄大な赤城山が望めます。利根川を渡ります。

 

  左が自動車専用道、右が歩行者、自転車用の人道橋です。文頭で述べたようにこの付近に道路橋は無いので、(上流の新上武大橋までは6km、下流の武蔵大橋まではなんと10km以上あります。)平日朝の通勤時間帯には両岸を往来する自転車で大渋滞します。長さは800mもあります。橋の上から下流を見ると、昔の木製橋脚の痕跡を見つけることができます。

 刀水橋を渡ってそのまま土手沿いに下流に700m行くと左手に「大泉町民野球場」が見えてきます。下の写真は下流を向いているので右手に利根川本流があります。

 余談になりますが、堤防の河が流れている側を「堤外」。左手の住宅地が広がっている側を「堤内」と言うそうです。「川が流れている堤防の内側が堤内だろ!」と思うのがあたりまえですが、インフラ業界では「人間が暮らしている側が内側」なのだそうです。面白いけどややこしい。

 左手の少し下った土手下に何やら古いコンクリートの柱があります。熊谷線の橋脚の跡です。大きさがわかるようにスケールとして自転車を入れて撮りました。このような橋脚が30基も連なっていたのですね。現在残っているのは、この1基だけです。

 背景の堤防の向こう側が河川敷です。何も残っていませんでした。

 

解説版がありました。まだ橋脚が建っていた頃の写真も載っていました。みごとなので帰ってからWebで当時の写真を探して見つけました。壮観です。実物を見ておきたかった~。

牛が居ます!これは大きさがわかる素晴らしいスケール(定規)です。

熊谷市のデジタルミュージアムより転載 

 

 仙石河岸線跡は、緑と彫刻の道「いずみ緑道」になりました。ここから東武小泉線「西小泉駅」まで 3.1 km、緑道が続いています。

 

 群馬県大泉町は総人口(2021)41,758のうち2割近くが外国人で、その中でもブラジル人が1割近くを占めています。ポルトガル語、スペイン語、ネパール語、アラビア語などさまざまな言語で書かれた看板が、町のあちらこちらに並んでいます。大泉町は群馬県で最も小さな町ですが、北関東工業地域に属していて、家電製品、食品加工、自動車部品工場などの工場が多く、その数は100を超えます。土地が広く地価も安いこの地区に1970年頃から多くの企業が目を付けて工場を建てました。しかし工業が発展するにつれ、労働者の不足が問題になってきました。 そこで注目したのが外国人の雇用です。海外に住む日系人の働き手を集めるための組織を作り求人活動を行いました。そして行政も役所の窓口に通訳を配置するなど、さまざまなサービスを提供して手厚い待遇で外国人を迎えました。月に一度、交流を深めるためのイベントも開かれ、住民たちはお互いの文化を理解し、暮らしやすい町づくりをめざしています。

 私が訪れた日も、いずみ緑道花の広場で「活きな世界のグルメ横町」という毎月第四日曜日に開催されるイベントをやっていて大賑わいでした。なんだかわからない食べ物がたくさん並べられていて、迷った末パラグアイ料理の屋台でエンパナーダ・デ・カルネなるものを買い求めて頂きました。ミートパイに似ていて美味しかった。悔やまれるのは、もう少し早く来ていたらサンバステージを観ることができたのに~ 残念!。

お祭りのステージは多国籍。賑やかです。

色々な国の露店がありました。

 「西小泉駅」に向かいます。島式ホーム1面2線。新しくて綺麗な駅です。駅名標は、日本語、英語、中国語、韓国語、ポルトガル語、スペイン語の6カ国語で表記されていました。褐色の外国人数人が話し込んでいました。

 中島飛行機小泉製作所の玄関駅だった頃の面影はありませんが、駅の西側には貨物輸送をしていた時代を偲ばせる広い構内ヤードが残っています。

 東武10000系です。

2両ワンマン編成で運行。小泉線は全区間でワンマン運転をしています。かつて小泉町駅~西小泉駅間の路線名は「仙石河岸線」で、西小泉駅~太田駅間の直通列車もありました。現在この区間は「東武小泉線」となっていて、ワンマン運転の普通列車のみが館林駅~西小泉駅間を運行しています。

 

 冬の午後4時はすでに夕暮れ前です。電車に乗って館林、久喜、大宮、池袋と乗り継いで帰ってきました。とても楽しい散策でした。                      2024.11.24

 

 

 熊谷線を辿って太田まで来たら、中島飛行機のことに触れないで終わらせることは出来ません。実は私の自宅の4~5km南に、かつての中島飛行機武蔵製作所がありました。現在は武蔵野中央公園などになっています。近所の古老に大東亜戦争の時の空襲の話を何度も聞きました。そんなこともあって少しだけ解説します。

武蔵製作所のあった武蔵野中央公園

                熊谷線の最終目的地となった中島飛行機について

 中島飛行機株式会社は、大正6年(1917)から終戦の昭和20年(1945)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカーです。創業者の中島知久平(ちくへい)(元海軍機関大尉)は、海軍を休職中に出生地である群馬県新田郡尾島町の養蚕小屋に「飛行機研究所」を創業しました。所長の中島や炊事使用人を含めて僅か9名の研究所でした。飛行機研究所は後に「日本飛行機製作所」と改称され、さらに「中島飛行機製作所」を経て、昭和6年(1931)に「中島飛行機株式会社」となりました。

 中島飛行機は、エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界でも一二を争う有数な航空機メーカーでした。そして多くの軍用機を開発・製造し大日本帝国軍に提供しました。

 送り出した各種戦闘機は、陸軍航空部隊の主力戦闘機となった九一式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」といった戦闘機マニア涎垂の名機が名を連ねます。特に四式戦は「大東亜決戦機」と呼称され、「日本軍最優秀戦闘機」との評価もあります。また従来の日本軍戦闘機とは異なる欧米的な要撃機の二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」や、本格的な双発大型機である重爆撃機「呑龍」も送り出しました。このほか試作や計画に終わったものの、エンジン六発の超大型重爆撃機「富嶽」や、キ87 高高度戦闘機、キ201ジェット戦闘爆撃機「火龍」なども手がけていました。航空機関連の工場は東京府西部の武蔵野などにもあり、敗戦までに中島飛行機は計29,925機の航空機を生産しました。

 「中島飛行機小泉製作所」は群馬県邑楽郡(おうらぐん)小泉町に昭和15年(1940)に開設された航空機工場(現パナソニック東京製作所)です。大日本帝国海軍航空部隊の機体専用工場として40万坪の工場敷地と20万坪の寮、住宅を備え、陸上競技場や病院、青年学校などの付属施設も完備していました。従業員は1940年の創設時に55,000人、1945年の終戦前で68,000人を超える名実ともに東洋一の規模を誇った航空機工場でした。

  生産数は『富士重工三十年史』によると1941年から1945年8月までに約9,000機、『大泉町誌』では合計1,0522機となっています。

 中島飛行機株式会社は、戦後「富士産業」と改称し、昭和25年(1950)には12社に分割されましたが、うち5社の出資による新会社「富士重工業」(現SUBARU)が1953年に発足。富士重工業はその創立を昭和28年(1953)7月15日とする一方で、創業は中島知久平が「飛行機研究所」を設けた大正6年(1917)5月としています。「中島飛行機」から解体された会社は、現在でも多くが存続しています。

 自動車開発の分野でも、戦後の日本で自動車製造に挑戦したメーカーは多くありましたが、独自開発が難しく、戦前からあった自動車会社でさえ海外メーカーの模倣、ライセンス生産をしていました。その時代において中島飛行機を源流とする富士重工業とプリンス自動車工業(後に日産自動車と合併)の2社のみが、技術提携に頼らずに自力開発を行うことができる技術力を有していました。このことは日本人技術者の誇りとも言えます。

 

 年譜を見てみましょう。

大正 6年(1917) 中島知久平が「飛行機研究所」を創業。

大正14年(1925) 東京府豊多摩郡井(い)荻(おぎ)町に東京工場完成。

昭和 9年(1934) 群馬県太田町に機体組み立ての新工場、太田工場が完成。(現、SUBARU群馬製作所)

昭和13年(1938)東京府北多摩郡武蔵野町西窪に陸軍向けのエンジン組み立て工場として武蔵野製作所開設。(現NTT武蔵野研究開発センタ)従業員5万人。

昭和14年(1939) 東京府北多摩郡田無町に中島航空金属を設立。 

昭和16年(1941)武蔵野製作所の西隣りに多摩製作所(現、武蔵野中央公園)を開設。         小泉製作所の玄関駅、東武鉄道仙石河岸線「西小泉駅」開業。

昭和18年(1943) 陸軍向けの武蔵野製作所と海軍向けの多摩製作所を合併して、新たに武蔵製作所とする。

昭和19年(1944) 東京府北多摩郡三鷹町に三鷹研究所が完成。(現、国際基督教大学)

 そして終戦・・

昭和20年(1945) 中島飛行機株式会社が富士産業株式会社と改称。

昭和25年(1950) 富士産業株式会社が12社に解体される。

昭和28年(1953) 12社のうち5社の出資により富士重工業株式会社設立。

昭和29年(1954)  富士精密工業株式会社がプリンス自動車工業株式会社を吸収合併。

昭和30年(1955) 富士重工業株式会社が5社を吸収合併。

昭和36年(1961) 富士精密工業株式会社がプリンス自動車工業株式会社と改称。

昭和41年(1966) 日産自動車株式会社がプリンス自動車工業株式会社を吸収合併。

平成29年(2017) 富士重工業株式会社が株式会社SUBARUと改称。

 

NTT武蔵野研究開発センタ技術資料館内部

武蔵製作所から中島航空金属田無工場(現,住友重機械工業田無製造所)までの廃線跡です。

 各工場の変遷は

太田製作所 →米軍管理下 →1960年富士重工(現SUBARU群馬製作所)

小泉製作所 →1945年 進駐軍に接収。キャンプ・ドルウ(Camp Drew)となる。

        1950年 朝鮮戦争の兵(へい)站(たん)基地としての重要性が増す。

        1959年 キャンプ・ドルウが返還される。

          東京三洋電機 →三洋電機東京製作所 →パナソニック東京製作所。

東京製作所 →富士精密 →プリンス自動車工業 →日産自動車 →桃井原っぱ公園ほか。

武蔵製作所 → 延べ9回にわたる大規模な空爆を受けた広大な敷地は、廃墟と化した

       まま4~5年放置された。

      1950年 電気通信研究所開所。(現NTT武蔵野研究開発センタ)

      1951年 武蔵野グリーンパーク野球場開設。  

      1954年 米軍将校用住宅、アメリカンスクール、米軍消防署開設。

      1958年 グリーンパーク野球場閉鎖→公団住宅

            1976年 グリーンパーク撤去。   

      1978年 東京都立武蔵野北高等学校創立

       1980年 アメリカンスクール閉校 →武蔵野市役所

      1989年 米軍将校用住宅 →武蔵野中央公園

       (順次) 武蔵製作所陸上競技場 →武蔵野陸上競技場 武蔵野総合体育館

          武蔵製作所プール →武蔵野市営プール

          武蔵製作所庭球場 →小学校他

      2001年 地下施設解体

         2016年 公園の拡張工事の際に当時の地下道、地下施設の一部が発見される。

三鷹研究所 →1953年 国際基督教大学、富士重工業エンジン工場

       1980年 ICUの一部 →野川公園 東京神学大学 ルーテル学院大学

 

 もし、当時の日本が米国のように物資に恵まれていたら・・、この会社はどうなっていただろう? 私の想像の域を超えてしまいました。    おしまい